HIDEKI'S 連載 COLUMN SI住宅

(書き下ろし連載にあたって)
 私は、建設省建築研究所に在籍時、スケルトン定借(つくば方式)の開発(1992〜1998)に続いて、SI住宅の普及をはかるプロジェクトに携わった(1997〜2001)。この連載では、私自身の裏面史を交えつつ「SI住宅」の真実をお伝えしたいと思う。


連載10 つくば方式マンション開発秘話3−第1号実現 その2


 つくば方式マンションの第1号は、つくば研究学園都市で1996年に完成した。実現までの「綱渡りと幸運の日々」のその2である。
 この回想録には、一部で実名が登場する。快く協力してくださった恩人の方々だ。しかし、もし回想録の内容に何か問題や誤りがみつかったとしても、それらの方々には一切の責任はない。すべて私の責任であることをお断りしておきたい。

縁がとりもつ地主さんとの出会い

 1994年8月末。大里部長と一緒に、第1号の地主さんになっていただいたお宅を訪問した。地主さんは部長の飲み友達とのこと。人と人のつながりは有難い。
 地主さんのご長男の後日談。「小林さんを見て、真面目そうで、人をだますようなことはないと思った。つくば方式の内容は、詳しい所までは分からなかったが、信用して任すことにした」。この時点では、地主さんご本人(おじいさん)は、まだ決めかねていた。
 その後、偶然が重なって信頼関係が生まれた。偶然の一つ目は、地主さんが経営していた古いアパートに、つくば高齢者問題研究会で親しくなった医者のAさんが昔入居されていたこと。おじいさんは、「あのAと友達か〜」。Aさんはとても印象に残る店子だったようだ。偶然の二つ目は、私の子ども2人が剣道を習っており、地主さんのご長男は剣道の指導員。「小林さんのお子さんも剣道をやっているとは〜」。そんなこともあり信頼関係ができていく。人と人のつながりは縁ということを実感した。不思議なものだ。

住宅金融公庫の融資が決まった !!

 この頃の最大の不安は、住宅ローンが決まっていないこと。万一、ローンがダメになったら事業は中止になる。地主さんにもマスコミにも、そして何よりも入居希望者に顔向けができない。さらに追い打ちをかけるように8月はじめに週刊朝日の記事があった(その1参照)。この夏は、眠れない夜が続いた。
 そして8月30日。伊福氏の企画で、住宅金融公庫のシンポジウムがあった。「これからのマンション供給を考える」というテーマで、つくば方式を紹介させていただいた。南関東支店の支店長につくば方式を知ってもらうきっかけとなり、公庫内部の調整がやりやすくなったとは、後日の伊福氏の言葉。そして9月に入り、ついに公庫融資がOKとなった。

 公庫にはコーポラティブ住宅向けの融資(個人共同融資)制度があった。それに定期借地方式を追加し、土地に担保をつけないで融資する方法が認められた。もちろん建物には担保をつける。一戸建の定期借地権に融資している実績があったこと、そして、何より伊福氏らのご努力のおかげだ。

 私のメモにはこう残っている。「伊福さんから融資の承認がとれたという電話をもらって、本当にホッとした。残るは借地契約書の開発だが、これは、骨格はできていたため、時間をかければ完成するという見通しがあった。地主さんもようやく決まり、この頃から胃の痛みが消えた。流れに背中を押されるのではなく、初めて、自分から進もうという気持ちになった」。

 公庫は新しい住宅供給の仕組みを実現する際には本当に頼りになる。<→詳しくはこちら

 つくば方式の借地契約書は、住都公団の定期借地を検討された弁護士に依頼した。快く引き受けてくださり、以後、頻繁に新宿にある事務所に通った。

第1号の事業着手を発表するが再び暗雲

  9月17日につくば市民会議が開催され、第1号の事業着手を発表した(写真)。百名近い参加者で、引き続き行われた入居説明会にも20名程の参加者があった。しかし当日のアンケートには、第1号予定地の春日3丁目について、学生アパートが多く環境が悪いため入居を躊躇するという意見が複数あった..不安。


 つくば市民会議で事業を発表した様子(1994.9.17)

 その直後、予定地より駅に近い立地で、一戸建の定期借地権住宅の販売が発表された。第1号の入居者集めと並行したため、タイミングの悪さに唖然とした。本当ならば、マンション形式の方が駅近くに立地するのが自然だが、逆転してしまった。入居者募集に暗雲が立ちこめる。立地を変更するとしても、地主探しが簡単にできるはずもない。

 公庫融資が決まったときの楽観が姿を消し、またダメかという気持ちになる。まるで、昇ったり降りたりとジェットコースターのようだ。

テレビ東京の取材に応じるがぶち壊し

 地主さんと公庫融資が決まったため、PRを兼ねてマスコミ取材を解禁した。テレビ東京の「情報ソースが決め手」の取材があり対応した。

 放映当日のメモ。「キャスターの女性は一生懸命好意的に紹介して下さったが、メイン司会が、『地主が建物を買い取れないと破産する方式だ』と茶々を入れてぶち壊し。誤解もはなはだしい。やっぱり過去に例がないものに対しては理解がない。マスコミ対応は難しい。実績を積んでからにしないとダメだとつくづく思った。」

 確かに「建物譲渡特約」だけでは、地主が建物を買い取れないと普通借地権になってしまい困難な状況に陥る。しかし、つくば方式は、これに定期借地権を付加することで、地主が建物を買い取れなくても、そのまま定期借地になるようにした点がポイントだ。その開発の要点がマスコミに伝わっていない。誤解されることが、もどかしい。

資金のゆとりが気持ちの余裕につながる

 10月に入り、地主さんが敷地の測量を知り合いに依頼した。この時、私は地主さんに「入居者が集まらないかもしれない」と弱気な発言をしている。もし、入居者が集まらなかったら測量費は無駄になる。「どうせ測量しなければならないから気にしなくていいよ」とは地主さんの温かい言葉。とはいえ、迷惑はかけられない。思ったより測量費は安く済み、研究会の活動費で立て替えた。成功したら返金する予定だ。では、失敗したらどうしたのだろうか...当時のメモにはない。たぶん、共同研究費から補填したのだと思う。資金に余剰があると、気持にも余裕が生まれる。

 しかし、その余裕もこの時までであった。
 建築工事が始まると、万一失敗したときの対応が必要になる。そこで、不測の事態があればいつでも地主の賃貸マンションに切り替えられるように事業を進めた。しかし、賃貸マンションの仕様と分譲の仕様ではコストが違う。賃貸マンションとして経営が成り立つためには、地主が支払える建築費には限度があり、その差額は5千万円と試算された。その差額のうち、共同研究費から約3千万円は工面できる。しかし、2千万円足りない。

 困ったあげく、私が入居したつもりで工面することにした。第1号の建設が始まった時に、女房には「この事業が失敗したら家の購入はあきらめてくれ」と言っている。女房は本気にしなかったのか、返答が楽観的であったのが救いだ。

Yさんが入居相談に来訪された

 10月11日。後に入居者になられたYさんが来訪。読売新聞の全国版にのった記事をみて、東京から訪問とのこと。詳しく質問されて、入居に前向きなことが嬉しい。

 いよいよ入居者募集の開始だ。それに向けて、建物の基本設計を行い、概算の費用と募集戸数のめどをつけた。募集説明会は11月12日と決まった。その案内をかねて、常陽リビングが11月5日号に1面トップ記事を書いてくださった。
 入居に前向きなYさんのインタビュー記事を中心とした印象深い内容であった。Yさんは、車いすの母親を抱えて、普通のマンションでは暮らせない。便利な場所で自由設計できるマンションは、最適だと思ったとのこと。

 これまで説明会に参加してくださった方にも、説明会のダイレクトメールを送った。

説明会当日に敷地周辺の道を一人で清掃

 11月12日に募集説明会。第1号の敷地と建物の詳しい発表を行う。現在でこそ、近くに小中一貫校が開校して一等地になっているが、当時は、大学生向けアパートばかりでゴミがよく散乱していた。そこで、説明会の早朝、道路に散乱していたゴミを一人で清掃しに行った。見学者の印象をよくするためだ。不動産業者の苦労を味わった次第。

 説明会では、敷地をスライドで写し、建物の模型を使って説明した(図)。その場のアンケートでは、14世帯が参加に前向きで、募集予定が12戸であったから、いいペースだ。


 募集説明会の様子(1994.10.11)

応募締切日に13世帯が申し込みがあった

 11月18日は応募締め切り日。13世帯の応募があった。契約段階で何世帯かの脱落が出ると予想されるため、少し足りない程度だろうか。

 地主さんに「なんとか集まりそうだ」と連絡。そのときに、2戸まで空き家でも賃貸マンションとして地主さんが所有して下さることを確認した。つまり、13世帯から3世帯抜けても大丈夫だ。意外に用心深く事業を進めている。振り返って思わず苦笑い。

 11月末にかけて、応募された方と一人一人お会いして、希望事項の確認や、建物内の住戸位置の調整を行った。位置は、数日後に第一希望と第二希望を提出していただき調整した。この面接で、ある程度バラつくように誘導していたためか、あまり重なる住戸がなかった。しかし唯一、最も価格が安い80m2住戸に3世帯の希望が重なった。

 その後の調整過程で、その住戸に申し込まれていた2名がよく分からない理由で辞退された。安さだけで申し込まれる方は、入居意思が不確実ということだろうか。

入居者の顔合わせ会に11世帯が参加

 12月3日に入居予定者の初顔合わせ。10世帯とY氏の合計11世帯が参加された。冨江先生と私も一緒に写真撮影。Y氏の母は車椅子だが、みなさん違和感なく対応してくださる。常陽リビングのインタビュー記事で、すでに知っておられたようだ。

 金利が上昇しており、12月5日が低金利の最終日。このため、急いで申請を行うことになり、書類の準備であわただしい。コーポラティブ住宅融資は、全世帯分を共同で申し込む。つまり、12戸分の申請が必要だ。1戸足りない。そこで、私が入居者として申請した。

 融資申込書を住宅金融公庫に届け、その場で書類の不備をチェック。N氏の所得証明が不十分で、公庫から小林氏がN氏の自宅に電話をかける。難航。電話でそんなことまでチェックするのかという返事で、嫌な予感がした。

 伊副氏は、「小林さん自身が入居者の一員として申請しているのをみて、これは相当の覚悟だなと思った」とのこと。

私が入居するか否かはどうして決まったか

 当時のメモにはこうある。「欠員が出た場合は、私が入居するつもりでした」「本当は、最初から私が入居者として確定しておけば良いのですが、そうすると、途中で辞退者が出た場合の対応ができない」「女房は、最上階ならば入居しても良いというので、実は密かに自分向けの住宅を設計しておいた」。

 しかし、「コーポラティブ住宅の場合、利害を調整するコーディネーターが入居者になることは避けるべきだと忠告されていた。このため、入居者が集まればコーディネーターに徹するつもりでした」。また、「少額だが補助金が入っているため、入居すると自分の利益のために補助金を引っ張ってきたと勘ぐる者が出てくるから、避けた方がよいという忠告も受けた」。実際にも、「建築研究所では、ごく一部だが小林は自分のために家づくりをしていると白い目で見る雰囲気があった」。つくば方式以前に、コーポラティブ方式の意味がそもそも分からないのが現実。もし私が入居していたら、さまざまな誤解を解くのが大変だったのではと思う。

  一緒に開発を進めていた佐野氏は、「最上階の住戸は最高の場所。これに小林さんが入っていたら、みんなからいろいろ言われたでしょうね。」

 建物が完成した時に、「どうして小林さんは入らなかったの。当然責任をとって入るものだと思っていた」ということをよく言われた。そんな時には、「競争率が高くて入れなかった」と冗談めかして返答していたが、内心は、人の苦労も知らないで勝手なことを言っているなあという気持ちだった。

つくばハウジング研究会で事業スタートを報告

 12月20日。つくばハウジング研究会で事業がスタートすることを報告した。皆さんは、よくここまで来たなあという感想。私も同じ気持ちだ。また、共同研究の建設会社に、つくばハウジング研究会名で、提案競技(いわゆるコンペ)を依頼することを確認した。第1号住宅の設計及び施工者を決めるコンペだ。

入居者と地主の仮契約で一人辞退が出た

 1995年に入り1月12日。入居者と地主との仮契約の調印日。この契約には、辞退したときの費用負担(代わりの参加者を募集する費用。最大で予定価格の10%)が入っているため、これ以後の辞退はしにくくなる。この段階で、公庫から電話した時に懸念していたN氏が辞退した。

 当時の私のメモ。「辞退の手紙には、つくば方式をけなすようなことが書かれていてガッカリした。N氏は都市計画コンサルタントで、事業ノウハウを取得する関心から入居しようとしたが、自宅が他市にありもともと無理があった。変な理由をあれこれ言うよりも、事業ノウハウへの色気から参加したが、やっぱり無理だったと正直に言ってもらった方がすっきりした」。

 もう1人抜けると10世帯を割り込み、事業の見直しに追い込まれる。K氏がこの日は決断できず、9世帯しか署名捺印がない。不安だ。私が入居するにしても、女房がOKした最上階はすでに埋まっている。説得できるだろうか?
 K氏とはその日の夜も相談させていただき、翌日に調印に至った。ホッとした。眠れない夜は1日で済んだ。

ようやく契約がそろい事業が正式にスタート

 1月13日。事業を担う建設組合が発足した。そのための3点セットは、建設組合規約の調印、公庫融資の申し込み、そして、地主との借地仮契約だ。これらが整って事業が正式にスタートした。建設組合の理事長には、国立研究所の管理職をされていて信頼の厚いS氏にお願いした。事前に打診したところ、何かお役に立てればと思っていたとのことで、快く引き受けていただいた。感謝!

 ようやく事業がスタートして、自宅で女房と乾杯した。10世帯ギリギリによるスタートであったが、4月に追加募集した時には、2戸の空き家に対して7世帯の応募があり以後は順調であった。

間取りの設計は楽しいひととき

 この頃から、事務局メンバー(小林、佐野、藤本)によって、住戸プランの聞き取りを行った。3名とも建築学科出身で一通りの基本設計はできる(実施設計は無理だが)。聞き取りの目的は、第一に、建設会社に依頼する際の要望をまとめること。そして、もう一つ、大きな目的があった。

 それは、住宅スケルトンの形を決めることだ。多様な間取りに対応するためには、スケルトンの寸法と妻側の窓の位置が重要になる。それを決める必要があった。その形状は、建設会社にコンペ参加を依頼するときの条件になる。3人で食事しながら、あれこれプランを書いて、スケルトンの形状を考えた(図)。建築を志した者には楽しい作業であった。

 1月25日に共同研究会。そこで、コンペの詳細について質疑応答を行った。建設費3億4千万円の設定根拠や、図面の提出方法などが討議される。建設費は、標準の建築単価によるもの。間取り内装の自由設計によって生じる差額は、居住者が別途負担することを説明した。


 つくば第1号のスケルトンの形

建設組合の会合で自由設計の進め方を説明

 建設組合が発足し、定期的に会合をセットする。1月12日に初回、2月4日に第2回を開催した。そこで、佐野氏がコンピューターグラフィクで外観イメージを紹介し、雰囲気を盛り上げる。

 この会合のポイントは、自由設計の進め方だ。自由設計といっても、妻側壁の窓の位置は動かせないこと、また排水のパイプスペースの位置を上下階でそろえる必要があることを説明した。この「妻側の窓」の扱いは、SI住宅のポイントのひとつだ。

 実は、第1号に続く「つくば第2号」と「東京1号」では、窓の位置をある程度自由にしている。しかし、そのためには、妻側の壁に地震力を負担させないことが望ましく、検討事項が増える。第1号の目的は、とにかく手堅く実現すること。安全運転を心がけた。

 とはいえ、研究所としてはSI住宅について実験をしたい。そこで、1住戸について、スケルトンとインフィルを別の設計者が行うことを試みた。このテーマならば、建物全体の耐震性や外観には影響がない。
 ちょうどY氏が、車椅子のための特殊な設計を希望しており、地元で設計事務所をされている高田氏にインフィル設計を依頼した。SIで設計者が別になると、図面の共有方法や寸法の微調整の進め方など、けっこう検討すべき課題があった。

建設会社による提案発表で同点が2案!

 2月18日。3案が提示された。竹中工務店、間組、そして2社合同チーム(アタカ工業と東急工建)による提案だ。 冨江先生と私が司会を務めて、いよいよ投票だ。

 結果は....なんと、竹中案とアタカ+東急案が、同点1位になった。その後話し合ったが決定には至らない。追加質問を行って、後日決めることになった。

 2月27日に再度の入居者会合。建設会社の回答を踏まえて相談した結果、竹中工務店が1位となった。

 実は、18日の会議の後で2階の入居予定者が密かに私を訪れた。アタカ+東急案は階高を高くしたため、1階が1メートルほど地面下に堀込まれ2階住戸が低くなる。そのことへの懸念を話された。それを伺って、私は内心決断した。無難な竹中案でないと全員がまとまらないと。当日は、その方向に議論を誘導した。「建設組合の皆さんは、まだ顔を合わせて間もない。腹を割った議論はなかなかできない。やはり、こちらが落としどころを定めていかないと決着はつかないと思った」と当時のメモにある。

 最終的には全員一致で、竹中工務店が選定された。ただし、一部には多少不満が残ったため、竹中工務店と協議して寸法などの微調整を行うことにした。特に、最上階が日影規制によって削られ、当初入居者がイメージしていた形態と異なる部分が生じた。その影響に配慮する必要があった。

 最後は寸法調整できない部分が残る。その場合は、購入価格を減額することにし、どうにか全員が納得するように調整できた。今振り返ると、我ながら見事な調整力であった。自画自賛?
 なお、次点となったアタカ+東急工建は、後日、つくば第2号の建設を担当した。

近隣の住民説明会で大歓迎されて感激

 3月4日の組合会合から、竹中工務店が参加して今後の進め方を説明。本格的な自由設計の開始は、スケルトン設計が固まって住戸寸法が決まってからになる。それまで、われわれ事務局メンバーが入居者一人一人と相談しながら、間取りのイメージづくりを支援した。
 また、中庭や集会室のあり方を検討する。入居者の一人から中庭の提案があり、この頃は、皆さんで夢を語り合って楽しい。もちろん我々も楽しんでいた。しかし...嵐の前の静けさであった。


 組合会合の様子。中庭の提案をするNさん(1995.6.10)

 6月13日に近隣住民への建築説明会があった。竹中工務店による説明の前に、近隣住民につくば方式の趣旨を説明したが、大歓迎してくださった。当時のメモに興味深い内容が残っている。「ちょうど、我々の説明の前に、ワンルームマンションの近隣説明があった。そこで、住民と相当激しいやりとりがあった。春日地区は、学生アパートのゴミや騒音問題に敏感で、1時間近くそちらの交渉が延び険悪な様子だ。我々の順番がきて恐る恐る説明に入ったが、住民の方々の表情が変わり、和やかな雰囲気になった。地域に定住する人々を歓迎する気持ちが、ひしひしと伝わってきた。」

自由設計が始まり不満が高まる

 6月に入り、入居者と相談してまとめた個別プランを竹中が図面におこした。いよいよ、竹中と入居者の個別相談が開始された。

 一人一人の自由設計をきめ細かくまとめる作業は、大きな建物を扱うことが多い大手建設会社には不慣れな分野だったのだろうか。個別相談が進むとともに、しだいに竹中と入居者にすきま風が吹き始める。

 7月に入り、入居者から竹中抜きで自主会合をもつとの連絡を受けた。まったく予期しないことであった。事務局が参加するかどうか迷ったが、我々への不満を含めて自由に意見を出して頂いた方がよいと考え、参加は見合わせた。そこで竹中への不満が噴出したようだ。後日、竹中への要望書が作成され、私から竹中に渡すことになった。その内容は...。

 まだまだ安眠は訪れない。ジェットコースターの終着はいつだろうか。

その3に続く

>連載11 つくば方式マンション開発秘話4−第1号の実現その3

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