HIDEKI'S 連載 COLUMN SI住宅

(書き下ろし連載にあたって)
 私は、建設省建築研究所に在籍時、スケルトン定借(つくば方式)の開発(1992〜1998)に続いて、SI住宅の普及をはかるプロジェクトに携わった(1997〜2001)。この連載では、私自身の裏面史を交えつつ「SI住宅」の真実をお伝えしたいと思う。


連載9 つくば方式マンション開発秘話2−第1号実現 その1


 つくば方式マンションの第1号は、つくば研究学園都市で1996年に完成した。研究者の発案が実現に至る過程は、「綱渡りと幸運の日々」の連続であった。実現に成功した今となっては懐かしい思い出だが、その渦中は、胃が痛くなる毎日であった。
 この回想録には、実名が登場する。快く協力してくださった恩人の方々だ。つくば方式が実現できたのは、それら方々のおかけといってよい。しかし、もし回想録の内容に何か問題や誤りがみつかったとしても、それらの方々には一切の責任はない。すべて私の責任であることをお断りしておきたい。

20年前の3.5インチフロッピーのメモ

 第1号が完成したときに、その経過について日記風のメモを残しておいた。それを20年ぶりに読んでみた。昔の3.5インチのフロッピーだ。古い機械を捨てなかったのが幸いして、なんとか読み込めた。
 忘れていたことが多い。そして、しだいにハラハラしてきた。そうか、こんなに紆余曲折の経緯だったのかと。


 つくば方式1号(1996.つくば研究学園都市)

思いもかけず市民の輪が広がる

 最初のきっかけは、1992年にさかのぼる。筑波大学の冨江先生からの電話であった。連載8で紹介したバスでの密談?の後のこと、「高齢者関連の住宅の話をして欲しいと頼まれたが、小林さんを紹介しておいた。連絡があるからよろしく。4月9日だけど大丈夫?」。後日、つくば高齢者問題研究会の井口百合香さん(つくばアーバンガーデニングで著名な方)より、手書きで心のこもった手紙をいただいた。井口さんとの、その後の長い交流の始まりであった。

 4月9日。つくば方式の原点である高齢者の住まいの話をした。その場で、元青年会議所理事長であった恩田光明氏をはじめとして、いろいろなキーマンに出会った。さらに、地元のケーブルテレビから講演を撮影したいと電話があった。気軽にOKしたが、そこから半年間、協賛している地元スーパーの広場にあるテレビで時々放映された。友人から番組を見たと声を掛けられたが、顔が映っているのを確認した程度で、内容をじっくり見た人は皆無だったようだ。でも、「なんとなく見たことがある」というのが重要らしい。その後、実現に向けてモデル事業を発表したときに、共感を広めていただく素地になった。

 実は、このときの提案は、まだ「二段階利用権分譲」の段階で実用化は遠い夢。そんなことはおくびにも出さず、実現に向けて進みましょう。今思えば、冷や汗ものだ。

つくばの専門家ネットワークとの接点ができる

 1ケ月後、岩見利勝教授(建築研究所の先輩で当時は立命館大学)の企画で、つくば研究支援センターで講演させていただいた。研究学園都市の功労者のお一人であった河本哲三さんはじめ、学園都市の人脈とつながった。

 岩見氏いわく、「この開発は建築研究所のヒット商品になる予感がする。どんどん推進しよう」。機運が盛り上がって、支援の動きが出てくる。

建設省の正式な研究テーマになる

 7月に入ると建築研究所の次年度の予算要求が始まる。私自身は、JICAの専門家派遣で中国に滞在していたため、もっぱら研究所企画部の飯田直彦氏、佐藤研一氏らが中心になって自ら予算書を書いて本省に説明して下さった。感謝!

 実は予算枠は2テーマしかなく継続案件で埋まっていた。しかし、両氏の熱意で3番目の枠が認められた。異例であった。金額は年2百万円程度であったが、金額は問題ではない。研究テーマが、自主テーマではなく、建設省の正式パンフレットに掲載できることの意義が大きい。研究開発資金を集めるために、企業に共同研究を呼びかける基盤ができた。この1年後には、約4千万円の研究費が集まった。

 とはいえ、この頃の私はといえば、まわりの動きにのっているだけで、自分から仕掛けているという感覚かない。いわゆる世間知らずの研究者であった。


 建設省の技術開発概要に掲載されたテーマ(1993年度)

行政との関係づくりがすすむ

 行政との関係づくりも重要だ。実は、この2年後、第1号マンションの地主さんを探して下さったのは、つくば市の部長さんであった。
 最初のつながりは、茨城県の住宅課。課長の笹井氏の音頭で、1991年から1年間開催された「茨城ハウジング研究会」が契機であった。委員長は、建築研究所の鎌田宜夫部長。その後、東京のつくば方式マンションに入居された恩人のお一人だ。もちろん冨江先生もメンバーであった。

 この活動が契機となり、翌1993年につくば方式マンションの実現母体となる「つくばハウジング研究会」が発足した。企業との共同研究が始まる前で資金難のときだ。県に相談したところ、当時の係長が活動費の工面に奔走して下さった。人と人のネットワークづくりが進んでいる。

だんだん引っ込みがつかなくなる

 1992年10月10日。恩田さんの仕掛けで、青年会議所主催によるつくば市民会議において「60歳からのつくばライフ」と題してシンポジウムが開かれた。河本哲三さんも講師のお一人。「老後に便利な場所に安く住み続ける」ことの大切さをめぐって白熱した。なんといっても、当時の老人ホームは郊外の不便な場所が多かった。そんなところに住みたくない、との話題で盛り上がった。その様子は、ケーブルテレビで数度放映された。

 11月20日。河本氏の依頼で、つくば研究コンーシアムで講演。昼食を食べながら談話する「X氏を囲む会」で、X氏として私が呼ばれた。参加者には、野堀・前豊里町長(その後、つくば市助役)、市の企画部長、青年会議所の理事、街づくりに熱心な方、新聞記者などが参加し、熱心に意見交換する。

 学園都市には旧住民と新住民という言葉があった。新住民は新しく住みついた人々。旧住民は、学園都市ができる前から住む人々だ。
 つくば方式を実現するためには、地主と入居者の両方が大切だ。前者の地主は、いわゆる旧住民に属しており、新住民の私たちとは接点がない。この会合で、はじめて接点ができることになった。

 ここまで、何かの流れに乗っているようだ。まだ、実用化研究が完成してないのに大丈夫だろうか。とはいえ、まだ構想を発表しているにすぎない。本当に胃が毎日痛くなるのは、モデル事業の実現に着手してからのことだ。

もう、やるしかない!

 高齢者問題研究会から1年後、1993年4月9日。そろそろ機が熟してきた。冨江先生とつくばハウジング研究会の発足に向けて相談した。
 茨城県へは、茨城ハウジング研究会の延長として発足させたいと冨江先生と私で説明に行った。快く参加を承諾してくださる。

 野堀助役には手紙で依頼。研究会の発足にあたり、市から適当な方に参加頂けるとありがたいとの趣旨であった。5月14日に助役に電話を差し上げたところ、企画部長を通して紹介するという快い返事を頂いた。部長より、大里都市整備部長他、福祉部長と常磐新線推進室長をご紹介いただいた。このときのやりとりが、その後の地主発掘に決定的な役割を果たすことになるから、分からないものだ。

 住宅都市整備公団(現UR都市機構)つくば開発局は少し難航した。冨江先生から「どういう経緯での依頼か不審がられてしまったよ。小林さんからも説明してみて」。後日、公団つくば局の梁瀬・事業課長代理に説明しに行く。「まあ、よく分からないけど、個人の資格でというなら参加してみます」。最初は、不審がっておられたが、その後、実現に向けて最も実務上の知恵を出して下さったお一人が梁瀬さん。

つくばハウジング研究会準備会の初会合

  6月18日。研究会の第一回にこぎつける。冨江先生のアドバイスで、当面は準備会として位置づける。場所は、国際科学振興財団の会議室。食事代を財団が援助してくださる。有り難い。これまで関わっていただいた主要メンバーが初めて顔を合わせた。

 研究会の目的は、つくば市の住まい全般の課題だ。利用権分譲方式は、その一つのテーマとして位置づける。これまでの提案を説明すると、疑問がいろいろと出される。「この時は、誰も実現できるなんて思っていなかったんじゃない」とは後日の井口さんの言葉。私も、実現の道筋は見えていなかった。

 9月16日の第2回に開催に向けて、8月末に地主さんと不動産業者にヒアリングした。借地経営は土地活用の収益率が低くて魅力がないという話であった。いきなりダメ出しで、意気消沈..。


 つくばハウジング研究会(家づくりの会がつくば方式に対応)

偶然とはいえ恐ろしいほどの幸運だ

 9月29日。井口さんらが進めている花と緑の女性庭師の活動の見学会に参加した。酒井氏の庭をお借りしての興味深い活動であった。
 そこに、住都公団つくば開発局の御船局長が参加されていた。井口さんと座談会で一緒だったとのこと。その後、小林氏は、まったく偶然、昼食時のレストランで御船局長と一緒になった。そこで、つくばハウジング研究会の活動を紹介した。協力してくださるとのこと。その後、梁瀬氏が、御船局長に声を掛けられたそうで、参加しやすくなったと喜ぶ。偶然の幸運とはこのことだ。

実用化できるつくば方式に軌道修正

 この頃、研究所では、現行法制度下でできる「つくば方式マンション」に軌道修正して開発を進めていた。その背景には、1991年10月に借地借家法が改正され、翌1992年8月に定期借地権が施行されたことがあった。これを用いれば、二段階利用権分譲に近い形が実現できる。

 このアイディアは、住都公団の大西誠さんからヒントを頂いた。大西さんは、公団で定期借地権を用いた事業の開発に携わっており、借地借家法に詳しかった。スケルトン・インフィル方式の開発はもとより、私の研究パートナーとなっていただいた優秀な先輩だ。

 さて、建物譲渡特約付き借地権を用いて、それに一般定期借地権を組み合わせれば、ほぼ実用化できそうだ。目途がつくと、急に強気になる。とはいえ、まだ本当の怖さを知らない。苦労はまだ先であることも知らずに、イケイケの気分であった。
 住宅の実用化には、「住宅ローンがつく」ことが必須条件だ。定期借地権による法的裏づけで満足し、当時は、住宅ローンの重要さへの認識が乏しかった。後で、その怖さを思い知らされることになる。

つくばハウジング研究会から行政計画に発展する

 1993年11月16日に準備会第3回。つくば市の地域住宅計画(HOPE計画)が始まるので、その取り組みについて検討する。茨城県住宅課の課長と係長、つくば市の担当課長長、HOPE計画のコンサルも参加し、行政との連携を具体的に検討した。

 12月17日につくば市HOPE計画の第一回委員会が開催される。つくば方式マンションの推進を行政計画に位置づける第一歩になる。そして、年が明けて1994年1月20日。今度は、国土庁による研究学園都市の定住化促進計画の第1回委員会が開かれる。ワーキング体制はHOPE計画と同じで、つくばハウジング研究会メンバーが中心だ。
 そして、HOPE計画と定住化促進方策の両方に、つくば方式住宅(利用権方式マンション)の推進が盛り込まれる。

行政計画はそれを生かそうとする方がいると力を発揮する

 よく聞く愚痴は、行政計画という報告書をいくら作成しても、ちっとも実現しないというものだ。しかし、これは間違った認識だと思う。つくば方式マンションが行政計画に記載されると、次のことが決定的に違う。それは、行政職員が動きやすくなるということだ。

 地主探しが始まると、最大の頼りは、つくば市役所のメンバーだ。当時、旧住民のネットワークをもっていたのは、私たちではない。市役所であった。そこで、行政計画に記載されることで、地主探しがやりやすくなる。行政内の打ち合わせに参加して協力依頼をすることができた。これは大きい。

 つまり、行政計画の本質は、何かを実現したいと思う熱意ある者がおり、それを行政内でオーソライズ(認可)する手続きとしてある。計画をつくって終わりであれば、それは、もともと実現したいと動く者がいなかったに過ぎない。他力ではなく、自力で実現したいと思う者に力を与えるのが行政計画である。

住宅金融公庫に最初の相談をする

 1994年3月29日。住宅金融公庫・南関東支店の調査委員会があった。つくば方式とは関係がない委員会だが、そのついでに、つくば方式への融資方法としてどのような手段があるか打診した。南関東支店の伊福澄哉氏が相談にのってくれる。

 この「ついでの」打診が功を奏するとは、本当に幸運だ。とはいえ、正式に融資がOKとなるのは、なんとモデル事業を発表して入居者集めが始まった後のことだ。万一、融資が不可になるとモデル事業は中止になる。住宅ローン問題は、胃が痛くなる最大の原因であった。

建築研究所の共同研究の募集が始まる

 1994年4月。実現するためには、企業の協力と事業の初期資金が必要だ。そこで、企業との共同研究テーマとして取り上げることにした。正式募集を始める前に、何社かに事前に打診をした。応じてくださるという見込みがたった後で、正式の募集開始とした。

 正式募集は7月。第1号の建設を担当した竹中工務店、第2号のアタカ工業と東急工建、三井建設、間組、日本塗装工業会に参加していただき、翌年度もさらに6社増えて、総額で4千万円ほどの共同研究資金が集まった。これで、モデル事業に着手する資金とバックアップ体制ができた。

実現に向けて借地契約書の内容を詰める

 この春に建築研究所に藤本秀一氏が新人として就職。私と佐野氏を加えて、3人体制で研究開発を進めることになった。5月には、実現に向けての最終的なシステム開発を進めていた。借地契約書の骨格、入居者負担額の概要、地主による相続税対策の方法、相当の収益を確保するための住宅と地主店舗を複合する方法、等が固まった。しかし、住宅ローンの融資方法の決着はつかない。

 定期借地権で土地に担保を付けられないことが融資のネックであった。だんだん不安になる。住宅金融公庫内部で、伊福氏がいろいろと奮闘してくださる。さらに、途中から竹井隆人氏が支援に加わってくださった。それに期待するしかない。
 ところで、竹井氏とは、その後も長い付き合いとなった。関西でのつくば方式マンションの推進に努力され、そして著書を書かれて政治学者としても著名になられた方だ。

見切り発車−つくばハウジング研究会を正式発足

 今思えば、なんという無謀。地主も決まっておらず、融資も決まっていない。しかし、入居希望者が集まれば、コーポラティヴ方式(建設組合をつくって建設会社に発注する方式)で実現できるという楽観さで、市民に向けてPRを開始することにした。家づくりの会員組織をつくり、地主が決まったらそこに案内するというイメージだ。

 7月23日につくば方式の説明会を企画するが、その母体が必要になる。そこで、つくばハウジング研究会を正式に発足させることにして、7月5日に第1回を開催。説明会の内容と9月のつくば市民会議の企画を議論した。井口さんの紹介で、読売新聞の記者の方、常陽リビングの仲沢さんも参加する。

 この日の夜、チラシ製作のアドバイスをして下さる方を小林、藤本、佐野で訪問。説明会のチラシを3000枚印刷した。

徒労に終わったチラシ配り

 7月19〜20日にかけて、小林氏、佐野氏、藤本氏、山中さん(小林研究室秘書)で公務員宿舎と民間賃貸マンションにチラシ配り。結果は、3000枚配って、チラシを見て説明会に参加したのは1名のみという結果であった。

 内容が洗練されておらず配布も開催日直前であったというマイナスがあったが、そもそもチラシは、つくばハウジング研究会のような無名の組織では、信用がないため効果が乏しいようだ。参加者の大多数は、新聞記事をみての参加であった。常陽リビング、読売新聞、朝日新聞が、説明会の案内を記事にしてくださった。

 
 7月23日の説明会のチラシ

7月23日につくば方式の市民向け説明会

 約70名が参加。半分近くは業者で、入居希望者は40名ほど。週間朝日などのマスコミの取材も多かった。冨江氏、小林氏が講演して、手応えを感じる。

 とはいえ、私のメモにはこう残っている。「この頃は、実を言うと、システムの最終骨格まで固まっておらず見切り発車だった。融資は、できそうだとの感触を得ていたが、公庫での正式決定ではなかった。また、借地契約書も詰めが残っており、ほんとうに事業が可能かどうかは不安だった。でも、仕掛けた以上、後戻りはできない。マスコミの取材が多くなり、予想以上の早さで世間の関心が高まるのと比例して、夜中に不安で飛び起きることが多くなり、しょっちゅう胃が痛んだ。今となっては懐かしいが」。

 NHKラジオの取材があり、電話インタビュー。朝のスポットで放送される。

地主探しの途中で週刊朝日の記事に落ち込む

 説明会の後、つくば市の大里部長に地主探しを正式に依頼した。市の都市整備部の方々が集まる場に参加して相談する。その場で、何人かの地主に課長さんが電話してくださるが、よい返事はもらえない。大里部長は「なんとかなるでしょう」というので心強い。

 そのような中、8月初めに週間朝日に予想外の記事が掲載される。取材記者は共感していたが、記事の常套として、批判的意見を合わせて掲載している。このため、全体としては実現に疑問マークのつく内容であった。疑問の多くは、コーポラティヴ方式にかかわる疑問で、つくば方式そのものではない。しかし、両者の違いは一般市民にはわからない。「疑問としてあげられていることは、たいした問題じゃないですよ」とは仲間の言だが、地主探しをしている途中では痛い記事であった。

 ちなみに、その記者は、つくば方式1号が実現した時は、賛辞の記事を書いてくださった。内心は、応援してくださっていたのだと思う。
 冨江先生と相談して、事業の見通しがたつまで、マスコミへの対応は中止することにした。直後にテレビ朝日から取材依頼がきたが、断った。本当に実現できるのだろうか。不安で夜ごとにうなされる日々であった。

その2に続く

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