HIDEKI'S 連載 COLUMN SI住宅

(書き下ろし連載にあたって)
 私は、建設省建築研究所に在籍時、スケルトン定借(つくば方式)の開発(1992〜1998)に続いて、SI住宅の普及をはかるプロジェクトに携わった(1997〜2001)。この連載では、私自身の裏面史を交えつつ「SI住宅」の真実をお伝えしたいと思う。


連載12 つくば方式マンション開発秘話5−第1号実現 その4(最終回)


 つくば方式マンションの第1号は、つくば研究学園都市で1996年に完成した。実現までの「綱渡りと幸運の日々」のその3である。

 この回想録には、一部で実名が登場する。快く協力してくださった恩人の方々だ。しかし、もし回想録の内容に何か問題や誤りがみつかったとしても、それらの方々には一切の責任はない。すべて私の責任であることをお断りしておきたい。

テナント予定の弁当屋がまさかの倒産

 1階の店舗に入りたいと申し出があった弁当屋は、筑波大学をはさんだ反対側で1号店を営んでいた。その様子を7月頃にそっと見に行った。客が多く流行っているようであった。さらに、私は顔が知られているため、女房に弁当を買ってもらった。食べるとおいしい。
 これなら大丈夫だと思い、さらにテナント入居契約を交わしたことで安心してしまった。換気ファンの費用50万円は、建物工事が完了したときに支払ってもらう契約とした。これが、素人事務局の甘さであった。

 年が明けて5月頃であったと思う。建物の内装工事に入っていたある日のこと。突然、弁当屋の訪問を受けた。なんと、破産したという証明書をもってきた。話を聞くと、銀行管理に入ったという。もちろん、新規出店は中止だ。つくば市の1号店は流行っているのではと聞くと、他市に出しているレストランが失敗したという。

 「しまった」と思ったが後の祭りだ。すでに、換気扇は工事に着手している。次のテナントも飲食店であれば負担を求められるが、そうでないと50万円は無駄になる。実際のところ、その後、理髪店が入居して排気ファンは無用の長物となった。
 やはり、排気ファンを特注したときに保証金を預かるべきであった。素人事務局の甘さを反省した。損失は、共同研究費から補填させていただいた。申し訳ない。

皆さんで建設現場を見学

 話を戻そう。1995年9月19日に地鎮祭が行われ、いよいよ建築工事が始まった。月1回の定例会では、全員で建設現場を見学する。竹中の現場監督Mさんは、快く応じて下さった。マンションの建設現場を見学できる機会は、めったに無い。皆さん、とてもよい経験になったと話してくださった(写真)。


 建設現場会のひとコマ(1995.1.9)

 実は、私の日記風メモは、ここで終わっている。その後は、定例会のスケジュールと議題だけを記載したメモだけが残っている。大きなトラブルなく進んだことの表れだろう。現場監督のMさんは、入居者の皆さんにとても信頼されていたことが印象的であった。第1号の建設が順調に進んだのは、優秀な監督さんに恵まれたことも大きい。

順調だったが小さな紆余曲折はあった

 建物工事が始まった後で、建設組合が決める積み残し事項がいくつかあった。その時は、事務局がとりまとめる。まずは、注意事項の伝達だ。以下の2点だ。

(1)建設現場の訪問は、月1回の定例会に限ること。皆さん、どうしても頻繁に現場を訪ねたくなる。それが12世帯バラバラだと工事に支障がでてしまう。そこで、現場見学は、定例会に限ることをお願いした。

(2)内装工事に入ると確認する事項が増える。その時は、定例会は月2〜3回と増やす。個別設計の変更があれば、その時に設計者同席で行うことにした。

 とはいえ、実際には、2は少し混乱した。入居者は、設計者を通さずに、現場で細部の確定や変更を行うことが少なくなかったからだ。変更は設計者を通すことにしていたが、どうしても現場での確認時に変更も依頼することが多く、現場が先、設計が後になってしまった。この点は、居住者参加における今後の課題として残った。

 さて、次は、建設組合として決める積み残し事項だ。植栽の内容、共用部分の色彩、サイン計画、の3つが残っていた。

植栽と色彩には気を使った

 サイン計画は、地域開放施設のサイン計画を含むため、筑波大の先生にアドバイスをお願いした。それに基づいてスムーズに合意が成立した。実は、地域貢献をテーマに、ハウジング・アンド・コミュニティ財団から活動助成金を頂いていた。その費用を使ってサインを設置できたことが、スムーズさにつながった。

 一方、植栽は、調整が必要であった。手入れの労力を避けたい方と、樹木を増やそうという方の意見が分かれたからだ。最後は中庸をとり、ほどほどの植栽でまとまった。しかし、建物完成から1年ほどして、駐車場の景観に配慮して植えた樹木を切る羽目になった。樹液によって車が汚れることが理由だ。樹種の選定は難しい。

 また、玄関ドアの色で少しトラブルがあった。組合の要望と実際に設置されたドアが違うという指摘があったからだ。どうして違ったかの経緯は分からず、全体に重苦しい雰囲気になった。しかし、竹中の現場の英断で、費用負担して交換してくださることになった。

 いずれの課題も、最後は関係者のご協力で解決した。事務局の不甲斐なさを補っていただいたわけで、感謝!

自由設計を踏まえた簡易実験を試みた

 この時期の活動を一つ紹介しよう。スケルトン(コンクリートの箱)が完成した状態で、内装設計のイメージをつかむ実験だ。入居者は、図面から最終的な空間をイメージするが、それは簡単ではない。そこで、以下の試みをした。

@スケルトン高さと天井高さは異なるため、天井の高さを板により実感してもらう。
A一部の内装が入った段階で使い勝手を確認する(写真)。
B室内模型について、スケルトン完成時に、再度イメージを確認する。


 現場で車椅子での動きやすさを確認

 これら実験の目的は、間取り内装について、設計時と完成後のイメージのギャップを少なくすることだ。しかし、やはり完成した時には、「こんなはずではなかった」という声があった。特に、色彩や材質感はイメージとは違ったようだ。集合住宅では現場確認の回数はどうしても少なくなり、注文戸建ほどの手間をかけられない。今日ではCGが発達しており、ギャップは少なくなったと思うが、自由設計の永遠の課題だ。

マンションの名前を決める

 建物が着工して3ケ月ほど経過した12月、建物の名称を決めることになり、入居者のTさんが担当になった。竹中がコンペの時に示した名前はコミュニティコート。それに加えて、入居者から名前を募集することになった。年明けに、ハガキでTさんに提出する。そして、年明けの定例会で、候補を披露して投票となった。

 結果は、大多数の賛同で、「メソードつくば」と決まった。つくば方式をひっくり返した名前で、入居者のお一人の発案であった。なかなか良い名前だ。すでに2号棟の建設が発表されていたため、メソードつくばTというわけだ。

 もう一つ名前が必要であった。地域開放施設の名前だ。わずか12世帯のマンションだが、広い集会室をもっている。キッチンはもちろん、宿泊できるように風呂がついている。希望があれば、地域に貸し出す想定だ。こちらは、サイン計画の決定にあわせて翌年6月に決めた。「コミュニティ・ルーム」だ。なじみやすい。

 その後、長年にわたり、つくばハウジン研究会は、このコミュニティ・ルームを会合の場として使わせていただいた。20年たった現在も、新築時と変わらず綺麗に使われている。

組合が自律的に活動−事務局は次の事業へ

 建物着工後の最初のお正月、ミニコミ紙「かすが」が発行された。担当はNさん。新年会のお知らせを兼ねて、記念すべき第1号の発行だ。私も原稿を寄稿させていただいた。その表紙を掲載する。裏面には、理事長と副理事長の自己紹介が楽しく掲載されていた。第2号からは、順次、入居者の和やかな自己紹介が続いた。


 ミニコミ誌「かすが」(1996.1.1)

 建設組合は、すでに自主的に動き始めている。そのおかけで、我々事務局は、第2号棟であるメソードつくばUと、東京1号となった松原アパートメントの計画に注力させていただくことができた。

 松原アパートメントは、この年の春に参加者募集を行い、6月に建設組合が設立された。完成は2年後の1998年6月。こちらの事業は、高市忠夫さんが主導された。優れた建築設計者かつ製品デザイナーであり、さらに企画者としても卓越した力を発揮された。つくばハウジング研究会が事業コーディネートをお手伝いした。

 
 メソードつくぱUと松原アパートメント

 その後、東京で数棟が実現していくが、面白いことに、それらの建物の大きさは、法律で定める容積率が200%(敷地面積の2倍という意味)に対して、平均160%しか使っていない。借地で土地費が軽くなるため、戸数の詰め込みをしなくても分譲価格が抑えられるからだ。その結果、良質で工夫された建物が実現している。これは、私も予想していなかった効果であった。

メソードつくばTの誕生

 そして、1996年7月31日に、メソードつくばTは完成した。
 完成パーティには関係者が集まり、記念すべき日となった。マスコミの取材も多く、活気あふれるなかでの船出となった。8月末には、入居者による記念パーティが中庭で開かれ、私も楽しい時を過ごした(写真)。

 
 中庭で開かれた入居記念パーティ

 建物完成後は、建設組合は管理組合に切り替わる。皆さんが分担して、使用細則などの懸案事項をテキパキと定めていった。

 その後、マスコミ取材が続いた。もちろん、完成したから気軽に応じることができた。以下に週刊朝日の記事の表紙を掲載させていただいた。好意的な記事だ。建築研究の成果が、このようにマスコミに取りあげていただくことはめったにない。私は取材慣れしておらず、テレビでは緊張してうまく話せなかった。それも、よい思い出であった。


 週間朝日の記事(1996.9.13)

建物とコミュニティの力に驚く

 入居後しばらくした時のこと、車椅子住宅のYさんから驚くべき報告があった。なんと、この家に移ってから、Yさんの母親が車椅子無しで出歩いたという。「私が出かけて留守の時に、おばあちゃんが、同じ階にあるAさんの家まで一人で歩いていったんです。電話の使い方が分からず、教えてもらおうと思ったと言っていました」。

 室内だけではなく外廊下にも手すりが設置されている。さらに、家の外には顔見知りの仲間がいる.これらの安心感が合わさって、一人で歩いて外に出るようになった。

 「ここに来てから、親子で喧嘩をしなくなりました。介護する立場には、将来の不安も重なってストレスがたまるんです。ここに来てから、それがなくなりました。」

 建物とコミュニティには、大きな力があることを知った。Yさんの母親は、10年ほどお住まいになられた後で他界された。幸せな終の住処だったのではと想像する。そして、Yさんは、母親をみとった後で、自らの役割を終えたとしてケアホームに移っていかれた。ちなみに、マンションは持ち家だから売買は自由だ。この建物を気に入った方が、新しく入居されている。

地主さんにとっても楽しい事業となった

 話は戻って、完成した翌年の2月、地主さん自慢のソバ打ちの会が開かれた。
 「ソバを打つのはけっこう力が要るんだ。30人前も打つのはひと仕事だ...」と始めた地主さん。それを見ていたNさんが、「前から一度やってみたかったんです」といって、教えを受けながらソバと悪銭苦闘している。昼頃にできあがり、学校帰りの子供たちも集まってきた。

 地主さんの言葉だ。「いやあ楽しい。こういう人間関係ができていくとは、地主冥利に尽きる。この事業をやって本当によかった。」

 地主さんは、この後、十数年でこの世を去られた。最後までお元気だったという。その後は、息子さんが地主を引き継がれた。その息子さんも、今年、勤務先を定年になられた。月日が経つは早い。それに比べて、建物はほとんど変わらないまま、この場所に建っている。

周辺の街に波及したつくば方式の効果

 地域に眼を転じてみよう。この街の課題は、学生アパート街でゴミ問題があったことだ。これを解決しようと、入居後にさっそく、皆さんが地域の自治会と連携して対策を開始した。自治会としても、半分あきらめていたところに、活動パワーのある強力な助っ人が現れた。大喜びであった。

 その効果は、すぐに現れた。当マンションのまわりでは、路上駐車やゴミの放置が無くなった。また、全国的に注目を浴びて来訪者が多いためだろうか。なんと、しばらくすると、近くの老朽化した建物がいくつか建替わり、町並みが明らかに綺麗になった。

 2010年には、徒歩3分ほどのところに、つくば市の小中一貫校が開校した。筑波大学にも近く、学園都市の住みやすい住宅地の一つとなっている。

 つくば方式を住民参加で実現することは、入居者はもとより、昔から住む地主さん、そして地域住民の3者が関わる事業となる。それを通して、街が元気になっていく。私にとっても予期しない喜びであった。(完)

>連載13 つくば方式マンションのその後1−トラブルを乗り越えて

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