HIDEKI'S
連載 COLUMN SI住宅
|
(書き下ろし連載にあたって)
私は、建設省建築研究所に在籍時、スケルトン定借(つくば方式)の開発(1992〜1998)に続いて、SI住宅の普及をはかるプロジェクトに携わった(1997〜2001)。この連載では、私自身の裏面史を交えつつ「SI住宅」の真実をお伝えしたいと思う。
連載13 つくば方式マンションのその後1−トラブルを乗り越えて
つくば方式マンションの第1号は、つくば研究学園都市で1996年に完成した。次いで、1998年には東京1号となる松原アパートメントハウスが完成し、その後、東京、横浜、大阪、神戸、京都、前橋と、実現例が増えていった。 今回は、トラブルを乗り越えた回想録だ。実名は伏せたが、もしお名前が推測される場合も、皆さん恩人の方々だ。回想録の内容について、それらの方々には一切の責任はないことをお断りしておきたい。
相次ぐ近隣トラブルで鍛えられた
大都市では、建設をめぐる近隣調整に悩まされた。メソードつくばT号は、地域住民に歓迎されたが、それも今は昔であった。
ある事例では、狭い路地を挟んで北側にミニ戸建てが建っていた。それまで広い庭があったところにマンションが建つ。当然に反対運動がおきた。私も出向いて長持ちする建物の意義を説明するが、それは北側住民には関係が無い。怪訝な顔をされて平身低頭だ。このときは、設計者の方がうまく北側に配慮して建物形状を修正された。
また、ある事例では、敷地の樹木を伐採することに近隣から反対があった。そこは地主の敷地だが、地域貢献が大切だという。一理あるが、相続税を支払えないなど地主にも事情がある。まちづくりにおいて、税制の影響が大きいことを痛感した。
このような場面を頻繁に経験して、世間知らずの研究者も鍛えられた。しかし、この程度は序の口であった。その後、最大のトラブルが待ち受けていた。建築設計者と建設会社が分裂し、事業が頓挫する危機に直面したプロジェクトが発生したのである。
ある日、建設会社から訴えがあった
プロジェクトが順調に進んで建築工事が始まると、私をはじめ支援グループの関わりは手薄になる。建設中は、つくば方式特有の事項があるわけではないからだ。一般の自由設計マンションと同じで、コーディネーターと建築設計者が中心となって事業を進める。
そんなある日、トラブルが発生しているとの連絡があり、建設現場の事務所を訪れた。事務所に入ると、コーディネーターを兼ねる設計者と、建設会社が険悪な様子だ。現場監督が私に訴える。「設計図面を決めるのが遅く工事が進められない」。内装の自由設計に手間がかかり、工期のめどがたたないという。さらに、スケルトンについても変更が頻繁にあり工事が進められないという。
スケジュール管理は建設のイロハだ。いったい何があったのだろうか。その建設会社は、設計者が建設組合に紹介したもので、良好な関係と伺っていた。しかし、しだいに現場が対応できなくなり、ついに不満が爆発したようだ。
理由はどうであれ、つくば方式を名のったプロジェクトだ。失敗になったらと...私はあせった。
入居者から懸念の声があがりはじめる
このトラブルは、しだいに入居者の知るところとなった。建設組合の会合で質問がでるが、客観的にみて工期が大幅に延びることは確実だ。「つくば方式を信頼して参加したのにどうなっているのか」。一部だが、私たちを非難する声が出始めた。
建築設計者は、一流のデザイナーだ。私たち支援グループは、つくば方式の仕組みを支援したが、建築設計と建設工事にはタッチしていない。とりわけ、建設会社は、ノウハウを知る共同研究各社を推薦したが、残念ながら価格が高めで採用されなかった。
とはいえ、私たちは無関係という言い訳は通用しないだろう。まったく関与していない部分で責任を追及されるのはつらいものだ。
支援グループが工事現場に入ることになった
このままでは崩壊だ。そこに助け船を出してくださったのが、共同研究グループの一員で、経験豊富なA氏であった。建設現場に入って頂けることになった。A氏は、頑迷な設計者をうまく説得しながら現場を指揮し、しだいに工事が軌道に乗りはじめた。その温厚な人柄と見事な調整力で、工期は遅れるものの工事完成のメドがたった。
建設組合の会議も、A氏が参加するようになってから明るい雰囲気になった。私もホッとした。それほど大きな存在であった。
私の生涯で最大の衝撃
しかし、なんということだろう。工事が軌道に乗ったある日、A氏が交通事故で亡くなられたという電話があった。まさか....言葉を失った。A氏が工事現場から帰宅する時、事故にあったという。困難なプロジェクトの支援に入り、疲労困ぱいしたことが一因だろうか。あまりに悲しい、そして心苦しい知らせであった。通夜の席では、様々な思いが心の中を巡った。私の生涯で、もっともつらい経験の一つであった。
その後の組合会議では、A氏を失ったことへの不安が噴出した。支援グループからは、もう一人のベテランB氏が対応することにした。不幸中の幸いであったのは、A氏のご努力で、工事が完成するメドがついていたことだ。
半年遅れで建物が完成した
そして、つくば方式マンションは、約半年遅れで完成した。マンションにおいて工期が遅れると様々な困難につながる。例えば、前住居を売却して入居される予定の方は、仮住居を手当しなければならない。当然、建設組合からは損害賠償の請求があった。
支援グループに対しては、建設組合より、賠償額をどうするか、設計者と建設会社の負担割合をどうするかについて、調停して欲しいという依頼があった。その調停を担当したB氏は、豊富な経験と冷静な判断力で解決方針をまとめて下さった。建設組合と建設会社はその方向で決着することになった。しかし、建築設計者については難航した。賠償責任をなかなか認めて頂けなかったからだ。
私もこのときは怒った
膠着状態のある日、私は建築設計者と二人で会うことにした。その場で、完成にこぎ着けたことへの感謝の言葉があるという甘い期待を抱いていた。さらに、支援グループは、建築設計者に支援経費を請求していた。その支援経費は、設計者に対する建設組合からの支払い(設計費とコーディネート費)から捻出して頂く予定であった。しかし、賠償によって支払い額が減る見込みだ。恐らく全額の回収は無理だろう。半額程度で調整する腹づもりであった。
ところが、そこで思いもよらない言葉をかけられた。「支援グループが途中から入ったことが工事遅延の原因だ」。「介入しなければ工期の遅れはなかった。責任はそちらにある」。一瞬、言葉を失った。あたかも支援グループに原因があるという言い方で、温厚な私もこのときは怒った。
想像するに、事務所経営を守るために責任を最小限にとどめようとされたのだろう。その事情を素直に説明してくだされば、もっと円満な落としどころがあったのではと思う。結局、協議は物別れに終わった。
その後、事務所は閉鎖したことを風の便りで聞いた。一方、支援グルーブも経費を回収できず大きな損失を負った。ありがたかったのは、その事情を聞いた建設組合から、別途、寄付金の申し出をいただいたことだ。もちろん、同時にお叱りの言葉も頂いた。ちゃんとした建築設計者や建設会社を選定するのも支援グループの役割ではないか、と。
私が反省しなければならない点
私の反省点は二つある。一つは、建築設計者がコーディネーターを兼ねることに反対し続けるべきであったことだ。この両者は求められる能力も立場も異なる。コーディネーターはスケジュールや資金を管理し、設計者に指示する立場だ。両方を担える建築設計者は、建設組合方式(コーポラティブ方式)に精通した一部にとどまる。
実は、事業の途中で、コーディネーターの権限を別の専門家にゆだねるよう説得し、一度は、その方向で進んだ。しかし、その専門家は、いつのまにか下請けの役割に限定されてしまった。そのことに反対し続けるべきであった。
そして、もう一つは、建設会社の選定にあたり、多少見積額が高めでもノウハウがある共同研究各社から選択するように強くアドバイスすべきであった。
事業がスタートする前であれば、つくば方式の名前を使わせないという権限が私たちにある。しかし、一旦つくば方式を標榜してスタートした後は、私たちには決定する権限がない。それにも関わらず、トラブルが生じると、つくば方式の名前を守るために無償であっても支援しなければならない。
では、支援グループの指示に従うという契約を事業者と交わすべきだろうか。しかし、そうすると、実質的なフランチャイズ制となり、支援グループの法的責任が大きくなる。やはり、ノウハウの提供とアドバイスにとどめるのが自然だろう。今回の失敗は、その責任のあり方について、入居者が参加を決断する時に十分に伝えていなかったことだ。
支援活動から一時撤退する
この失敗は、私にとって重い教訓となった。信頼していたA氏を失い、支援グループが懸命に活動すればするほど、支援グループによる事業であると入居者に誤解される。そもそも、私にとっては無償ボランティアだ。なぜ、支援しなければならないのか。
このトラブルを契機として、私は支援活動から遠ざかることにした。しかし、そのとたんに、新規プロジェクトが立ち上がらなくなった。振り返れば、これまでのプロジェクトでは、地主の説得に私が出向いている。その地主説得がなければ、プロジェクトが始まらない。説得力があるコーディネーターが育つのは、しばらく先のことであった。
さあ、支援活動の再開だ!
2〜3年間、新規プロジェクトの停滞が続くと、さすがに寂しい。再び気力が充実した2003年頃、プロジェクトの相談があった。よし、久々に活動を再開しよう!。