HIDEKI'S 連載 COLUMN SI住宅

(書き下ろし連載にあたって)
 私は、建設省建築研究所に在籍時、SI住宅の普及をはかるプロジェクトに携わった(1997〜2001)。この連載では、私自身の裏面史を交えつつ「SI住宅」の真実をお伝えしたいと思う。


連載4 SI方式の裏面史3−関西の裸貸しに学ぶ


社会党の構想はどこから?

 社会党が1954年頃、労働者住宅政策の提案をまとめたが、その中に、「公的資金を入れて未完成の住宅を分譲する。中の造作は、購入者が資力に応じてつくる」というスケルトン分譲に近い提案があった(前回参照)。
 いったい、どこから、このような発想が出てきたのだろうか。
 もちろん、コルビュジエを原点とする建築界の影響とは考えにくい。というのは、座談会において、司会の中島が、吉阪隆正の人工土地と社会党の提案は、まったく別の経緯から生まれたと述べているからだ。してみると、日本の住まいの実態の中に、社会党の提案の芽があったと考えるのが自然だろう。
 私は、その芽は「関西の裸貸し」ではないかと推察している。
 社会党の田中一議員の言葉である。「北海道とか関西では、家だけできれば−−戸じまりと雨じまいとをして、いちおう柱の配置だけは決めておりますけれども、あとの造作部分は住むものがもてという歴史があるそうですね。その程度の(中略)ものを考えたいんですよ・・・・私の考え方は」(国際建築1957.3。P16)。
 明らかに関西の裸貸しをモデルとしている(北海道は開拓村のようだが発言意図は不明)。しかし、言葉の中に「そうですね」とあるように伝聞である。つまり、社会党の関係者に、関西の裸貸しに詳しい方がいたことが伺える。
 田中は、青森県出身のキリスト教社会主義者。座談会に同席していた大阪出身の京大の西山は、話の内容から社会党の提案には関わっていない。残るは、司会の中島博か、あるいは座談会には出席していない社会党関係者ということになる。
 残念ながら、それをたどることはできなかった。読者の中で、もしご存じの方がいらっしゃれば、連絡を頂けると大変ありがたく思う次第だ。

関西の裸貸しがスケルトン住宅の原点

 とはいえ、社会党の提案の原点に、関西の裸貸しがあったことは確実だ。ようやく、歴史の点と線はつながったわけである。
 つまり、スケルトン住宅とは、1.関西の裸貸しを原点にもち、2.社会党の提案を通して住宅政策の表舞台に登場し、3.コルビュジエの影響を受けた建築界の人工土地構想と出会って洗練されたものである。
 ちなみに、田中議員は、社会党の提案は戸建住宅を想定しており、積層化には建築家の提案を期待すると述べている。つまり、人工土地構想と出会うことによって、いわば「立体裸貸し」へと発展しており、それを中島と西山は「スケルトン住宅」と呼んだ。これが、その後、SI住宅へと発展していく。
 つまり、スケルトン・インフィル方式は、日本の歴史に根ざした概念である。安易に輸入概念である「サポート・インフィル」に変えてはいけないのである。

関西の裸貸しは優れたシステム

 近世大阪で発達した裸貸しを概観しておこう。
 簡単にいえば、長屋を内装造作のない裸で貸し、店子(借り手のこと)がそれらを設置して住む仕組みである。詳しく知りたい方は、大阪市立住まいのミュージアムの谷直樹先生や京大の高田光雄先生の論考などを参照していただければと思う。
 少し説明すると、屋根と外壁、柱と梁、床板等の「戸じまりと雨じまいを保証する部分」は大家さんの所有物。これに対して、家の中の畳・障子・襖はもちろんのこと、流しやかまどといった設備まで、店子が自分で調達する。引っ越しの時は、家具と同じように畳や襖を持ち運んだり、あるいは、中古の畳や襖を売ったり借りたりした。このような借家の仕組みが、江戸時代の終わり頃には大坂で一般化していた。

 これは世界に誇るべき素晴らしい仕組みだと思う。メリットをあげてみよう。

1.大家と店子の責任範囲が明確である。
 普通の賃貸では、内装を汚したり設備を壊したりと、その修繕費をめぐってトラブルになりやすい。しかし、裸貸しシステムであれば、汚れ等が生じやすい内装造作は店子負担でありトラブルの心配がない。さすが、大阪は合理的だと感心する。

2.賃貸でありながら好みや財力にあわせた内装造作にできる。
 内装造作や設備はお仕着せではなく、自分の好みのものにできる。しかも、自分の懐具合に応じて、高級感をもたせることもできれば、最低限の内装にもできる。

 3.内装造作や設備を流通させる仕事を生み出す。
 家具はもとより、畳や襖、かまど等の内装造作や設備を貸し出したり、中古を引き取ったりする、いわばインフィル流通産業という仕事を生み出す。これにより、それらを無駄にしないエコな社会を実現する。実は、昭和40年代頃までの公営住宅には、風呂場はあったが、そこに風呂桶や湯沸かしは設置されていなかった。それらは、引っ越すと不要になるため、それを引き取り流通させる業者が存在した。私は、面白い仕事があるものだと感心したことを覚えている。そのようなインフィル流通産業が、すでに江戸時代の大阪では広く展開していたのである。

内装造作の流通を可能にする寸法の仕組み

 内装造作が流通するためには、重要な条件がある。それは、家の寸法が統一されていることだ。例えば、畳を思い浮かべて欲しい。畳を持ち運びできるためには、どの家の畳も同じ寸法でなければならない。
 近世の大阪では、この寸法がみごとに統一されていた。その秘密は、「京間」という寸法体系にある。京間は、関東の江戸間に比べると大きく、畳の短辺が95cm強である。それに加えて、もう一つ重要な違いがある。それは、京間は「内法柱間」(うちのりはしらま)という寸法体系をとることだ。別名、畳割ともいい、畳の寸法をすべて同じとして部屋の寸法を決めている。
 なんだ...と当たり前に思うかもしれないが、実は、関東の江戸間は、「心々柱間」といって、柱の中心から中心までの寸法を統一している。これは柱の位置や梁の寸法が統一できるため設計と施工がしやすい。しかし、柱の太さによって畳の寸法が微妙に違ってしまう。つまり、関東では、畳は持ち運べないのである。
 思い起こせば、私の実家は古い江戸間であったが、畳を干す時は、畳の裏に番号をふった。畳を元の位置に戻せるようにするためである。そうしないと、畳がはみ出したり、逆に小さな隙間が生じたりした。

 まとめよう。関西では、京間という内法柱間の仕組みと、その寸法を精度よく建てられる職人がおり、それによって、どの家でも畳や襖の寸法が統一されていた。このことが、裸貸しという世界的にみても先進的な仕組みを実現したといえる。

 私たちが、今日、試行錯誤して取り組んでいるスケルトン・インフィル方式は、すでに近世大阪において、一般的な長屋の仕組みとして実用化されていたのである。(続く)

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