KOBAYASHI HIDEKI'S COLUMN 2021
生活の視点からみた住宅の市場価値
- 一人一人の生活者の立場から建築・都市を考える -
(掲載にあたって)
研究室のモットーである「一人一人の生活から建築・都市を考える」を踏まえて、住宅の価値とは何かを論じたものです。2009年に発表した論考を、その後の時代変化にあわせて改訂しました。生活価値と市場価値のズレを埋めるために、インターネットの発達と一般解としてのSI方式への期待を述べています。
はじめに
卑近な話で恐縮だが、筆者の研究室のモットーは、「一人一人の生活から建築・都市を考える」である。このモットーは、「生活の視点」を基本とし、加えて、「一人一人」という言葉の中に、生活者を不特定多数としてみるのではなく、一人一人の違いを大切にするという意図が込められている。このことは、筆者が住宅の価値を論じるときの基本姿勢になっている。
その一方で、「お宅の住宅の価値は?」と聞かれれば、それが文化財でなければ、一般には中古価格を思い浮かべるだろう。もちろん、土地と建物を切り離しては考えられない。土地と建物を一体として市場で取引きされる価格のことだ。このような取引価格を指標とした住宅の価値を、ここでは「市場価値」と呼ぶことにしよう。
では、市場価値は、一人一人の生活からみた住宅の価値(以下、「生活価値」と呼ぶことにする)と同じなのだろうか、それとも違うのだろうか。もし違うならば、両者を一致させるためには、どうしたらよいのだろうか。これが筆者の基本的な問題意識である。
一般的には、生活からみた価値が高ければ(使いやすい、広い、見栄えがよい等)、市場価値も高くなるはずだ。このような想定から、消費者の要求を把握して商品企画に反映しようとするマーケティングが発達した。しかし、住宅は一般商品と異なる特性をもち、以下の理由から両者が一致しない場合がある。それは、①不特定多数と一人一人の評価は違うことであり、②少数でも市場が成立する一般商品と異なり、住宅は立地選好が強いため需要がさらに限定されてしまうため、である。
筆者の住宅価値論とは、このように両者にズレがあることを認識したうえで、いかにしてズレを乗り越え、「一人一人の生活者からの視点」を市場価値に反映しうるか、その方法を検討することである。以下、詳しく述べよう。
1.住宅・建築の価値を表す4つの視点
筆者は、住宅・建築の価値を4つの視点から理解している(図)。
図の横軸は、「用と美」で代表されるもので、「行動と心理」「理性と感性」とも表現される軸である。縦軸は、本稿の主題である「一人一人(個人)にとっての価値」か「多数にとっての価値」か、という軸である。この2軸により、4つの価値が整理できる。
右上の「愛着価値」は、一人一人が愛着をもつことで生まれる価値である。例えば、思い出がある家具が、その個人にはとても大事だというケースである。一方で、その市場価値は高級品や骨董品でない限り一般的にはゼロで、時には破棄費用がかかりマイナスになる。ところが、その個人が有名人や人気のタレントであるとどうだろうか。高値で取引されることもある。それが次の象徴価値である。
右下の「象徴価値」は、多数の人々が、その建築や住宅に愛着を感じ価値を認めることである。文化的価値、ブランド価値、歴史的価値といってもよい。時には、希少であることが価値を高めることもある。
左上の「利用価値」は、使いやすい、安心で便利、などの評価による価値のうち、それを利用する個人にとっての価値である。使いやすさは、多くの人々に共通であることが多いため、次の機能価値に転化することが多いが、しかし、特殊な障害をもつ方にとっての使いやすさは、多数の人々のそれとは異なることがある。このため、利用価値と機能価値を区別する。
左下の「機能価値」は、多くの人々にとって、使いやすい、性能が高い、安心で便利、であることを示す価値である。例えば、住宅性能表示の仕組みがあるが、それは専らこの機能価値を表現するものといえる。
さて、重要なことは、上半分の「利用価値」「愛着価値」は、主語が個人になることである。つまり、私にとって利用価値がある、私が愛着を感じているという表現になる。一方で、下半分の「機能価値」「象徴価値」は、主語が住宅・建築・製品等になる。つまり、その住宅の機能は高い、その住宅は象徴価値をもつという表現になる。
2.これまでの歴史を概観する
まず、「一人一人の生活者からの視点」の持つ意味を整理しておこう。そのために、少々長くなるが、住宅計画の歴史をさかのぼってみたい。
(1)「生活から建築を考える」という理念
昔の住宅(明治時代までを想定。下層階級を除く)は家の定型があり、家父長制度の下で代々受け継がれるものであった。これは、いわば「住宅が先にあって、それに生活を合わせる」もので、一人一人の生活から住宅を考えるという視点とは対極にある。では、いつ頃から、生活の視点が登場したのだろうか。
その端緒は、産業革命の進展に伴い中流階級(現代のサラリーマン核家族)が台頭した大正デモクラシーの前後とみられる。その頃、住宅関連誌が登場し、そこで「趣味」を大切にするという表現が初めて登場した(祐成保志2008)。つまり、この頃から、住宅づくりにおいて個人の趣味性(個性と言い換えても良い)を重視する風潮が生まれたと考えられる。そこには、①(生活者尊重)生活者の立場から住宅を考える、②(個性尊重)一人一人の個性を尊重して住宅を考える、という家重視から個人重視への転換を示す萌芽がみられる。
その後、第二次大戦の勃発により、このような風潮は一旦途絶える。戦後は、極端な住宅不足に対処するために、公共主導による大量供給時代が始まる。そこでは、標準化による大量供給の必要から個性尊重の理念は後退するが、しかし、標準設計の計画において「生活から建築を考える」という理念が確立する。具体的には、西山夘三らの一連の研究、あるいは公営51C型を生み出した吉武泰水・鈴木成文らの活動に代表される。これらを通して、建築計画学と呼ばれる研究領域が成立していくことになる。
(2)個性尊重は住宅不足の解消を背景に発展
個性尊重の理念が再び登場するのは、住宅不足が解消された1970年代以降のことである。この頃、個性順応型住宅の研究、あるいは多様化の研究などが登場する。これらは、今日振り返ると、大正デモクラシー以来のテーマであった家族内外の民主化の表れとして、住まいに対する個性の表出を前向きに評価する動きであったと解釈できる。これとともに、ライフスタイル対応設計や自由設計(個性尊重の一つの表れ)が重視される時代を迎えた。
このような個性尊重は住宅分野にとどまらない。マーケティング分野ではライススタイル調査が登場し、1980年代には、「愛着価値」(趣味性、こだわり、自分との関わりの重視)への訴求が言われるようになった。さらに、日本全体がアメリカの住文化を目標として同じ方向に進んだ大衆の時代が終わり、多様なライフスタイルへの対応が求められる分衆の時代に入ったことが指摘された。
(3)住宅の中古流通の発達と自由設計への疑問
しかし、バブル崩壊後の1990年代になると、新築からストック重視への転換の中で、自由設計への疑問が提起されるようになる。具体的には、市場での流通のしやすさから、住宅は標準化することが望ましいという意見の登場である。事実、流通が重視されるマンションでは、間取りの標準化が進んでいた。
また、このような中古流通の重視は、住宅が終の住みかではなくなったことも影響している。というのは、もし、その住宅に生涯住み続けるならば、市場価値・中古価格は関係が無い。自分あるいは家族が好きな個性的デザインで問題はないだろう。しかし、今日、老後の安心を求めて持家一戸建を売り、駅前マンションに転居する需要が顕在化している。つまり、持家一戸建でさえ中古流通を想定した住まいが重視されるようになった。
このような状況を受けて、「中古流通のためには、住宅は標準化を進めるべきだ」という論調が登場したわけである。大正デモクラシー以来、長い間に育まれてきた「個性尊重」という理念は、この時、逆風にさらされていたといえる。
しかし、標準化の主張は、極論すれば、「住宅の価値とは、中古流通価格(市場価値)が優先する」ということと同義である。基本に立ち返れば、住宅には「4つの価値」があるはずだ。では、どうしたらよいのだろうか。
3.不特定多数と一人一人の評価は違う
この問いに答える前に、住宅の市場価値が、生活者一人一人の評価と異なる理由を整理しておこう。両者が異なる理由は、市場価値とは、もっぱら不特定多数にとっての住宅の評価(つまり、4つの価値のなかで「機能)と「象徴」)に対応しているからである。このため、例えば、一人一人の好みに合わせた個性的なデザイン(自由設計)の住宅は、その個人にとって満足度は高いとしても、その住宅を中古売買する際の市場価値は一般に低くなる。
さらに、住宅には、一人一人の住み手の記憶・体験が刻み込まれ、その個人にとって特別の価値(愛着価値)をもつ。しかし、そのような価値は市場では評価されない。むしろ個人の痕跡は嫌われる。その結果、市場価値と一人一人の評価にズレが生じることになる。
ところで、一般商品であれば、個性的であることが必ずしも市場価値の低下を招くわけではない。例えば、一般人には何の価値もない趣味の玩具も、愛好家の間であれば高値で取引される。つまり、市場に参加する人数が少なくなるだけで、市場そのものが無くなるわけではない。
(1)住宅の特殊性:立地と切り離せない
しかるに、なぜ、住宅ではそうならないのだろうか。その理由は、住宅は、立地から分離できないことにある。例えば、個性的デザインの住宅があったとしよう。そして、そのデザインを好む人々も相当数いるとしよう。しかし、住宅の場合は、デザインだけではなく、立地、住宅面積、価格によって市場が絞り込まれる。その結果、個性的住宅は、購入希望者が少数にとどまるか、あるいは、購入希望者がいないことも多い。つまり、売買することが難しく市場価値の低下につながりやすい。
住宅・建築は、立地から切り離せないという一般商品と異なる特性をもつ。その結果、多数の人々に好まれる住宅でないと、その立地での市場価値を維持しにくいことになる。このことが、市場価値と生活価値にズレを生み出すもっとも大きな要因である。
(2)インターネットの発達による可能性
今日、インターネットの発達により写真情報等を豊富に掲載することができる。これにより、少数者にとっての市場を成立させやすくなっている。もちろん立地の影響は大きいが、仮に需要者が1~2人しかいないとしても、その人に情報が届けられる可能性は飛躍的に高まっている。これは大きな期待である。
この期待は、中古住宅の流通においてだけではなく、デザイナーズ住宅の事業にもあてはまる。仮にそのデザインが、多数の人々の支持をえる「象徴価値」や「ブランド価値」に至らなくても、数人の愛着に応えることができれば事業は成立する。もちろん、事業主からみるとリスクはあるが、他との差別化が求められる時代でありチャレンジする意義はあろう。
4.一般解はスケルトンとインフィルの分離
生活価値と市場価値のズレを解決するための一般的な解決方法は、巽和夫・高田光雄らが主張するスケルトンとインフィルの分離にあると考えられる(図)。つまり、スケルトンは社会性を重視し、インフィルは個性尊重をという役割分担の実現である。
(1)スケルトンで市場価値を担保する
この場合のスケルトンとは、長持ちする建物の骨格であり、中古流通する際の主要な評価対象である。この部分は、集合住宅であれ、一戸建住宅であれ、ある程度の定型化が望ましいことになる。その一方で、インフィルは、個人の自由に委ねたい。そうすれば、ある者は、中古流通を考慮して標準内装を選択するであろうし、また、ある者は、逆に、個性を思いっきり尊重した自由設計を行うだろう。後者の場合、中古売買時に市場価値が上がるか落ちるかは分からないが、仮に落ちたとしても土地とスケルトンの価値が維持されていれば、それで十分だと割り切りことができる。
もちろん、留意したいことは、スケルトンは定型化を求めるとしても、外観デザインが否定されるわけではないことだ。長寿命化、インフィルの更新の容易さ、町並みへの配慮等の基本を踏まえた上で、意欲的なデザイン表現を求めることは大いに期待されることである。
(2)自由設計対応は日本が世界に誇る建築技術
ところで、自由設計の良さについては、もう一つ別の視点を付け加えたい。それは、建築・住宅産業の技術的蓄積という視点だ。筆者が、インフィルの自由設計に関して欧米で見聞きしたことは、自由設計を行えば、建築コストが倍以上になるという事実であった。これに対して、日本では、3割程度のアップでも相当の自由設計が可能だ。比較的安価に自由設計ができる理由は、住宅部品産業の発達に負うところが大きい。
日本では、インフィルの自由設計といっても、その多くは、標準化された部品の組み合わせによって達成できる。システムキッチンやバスユニットはメニューの組み合わせで多様な要望に応えられる。フローリングやサッシュの仕組みもしかりである。これは、日本が世界に誇るべき設備・内装システムであると思う。
もちろん、発展途上国のように職人の賃金が極めて安い場合は、現場施工によって自由設計が安価にできる。むしろ工場生産品の方が高い国も多い。しかし、いずれ、それらの国々も住宅設備の高度化、職人賃金の上昇により、現場施工に依存した自由設計は高価になる時がくる。その時に、部品産業に支えられた日本の自由設計システムは、優れたお手本となるはずだ。そのような技術的蓄積を「中古流通のためには標準化が適切だ」という理由で軽視するとしたら、大変残念なことである。
スケルトン・インフィル方式は、不特定多数にとっての市場価値と、一人一人にとっての生活価値を両立するための鍵である。と同時に、貴重な日本の技術的財産なのである。
5.外部効果からみた住宅の価値-住み手と地域住民の評価の違い
筆者は、生活の視点とは、住み手だけではなく地域住民の視点を含むものと考えている。しかし、やっかいなことに住み手と地域住民の評価は往々にして異なる。その理由は、建築の外部効果の存在にある。
(1)建築の外部効果は市場価値に反映されにくい
建築は、町並みの一部を構成し、周辺に影響を及ぼす。これらの影響のうち、市場で直接取引きされにくいものは「外部効果」(プラス効果は外部経済、マイナス効果は外部不経済)と呼ばれる。例えば、日影、景観などである。このため、住み手本人にとっては価値が高い住宅でも、外部効果(この場合は外部不経済)により、地域住民にとって価値は低い、あるいは許容できないということが生じる。例えば、日影を落とす高層マンションが典型だ。また逆に、地域住民にとって価値が高い緑豊かな古い家屋が、本人にとっては、庭の維持管理が負担になったり、古くて使いにくかったりして評価が低いことも生じる。
そして、住み手と地域住民の評価が異なる場合、住宅の市場価値に反映されるのは、地域の反対運動があれば別だが、一般的には住み手・購入者にとって評価である。このため、市場価値と地域住民からみた評価は、ズレることになる。
(2)外部効果による評価のズレを解決する
このようなズレ、とりわけ外部不経済によるズレは、なるべく解消したいものである。そのためには、住み手と地域住民の評価を分断しないような建築関連規制が鍵を握る。現在でも、日影規制、高さ制限、斜線制限、容積率制限等があるが、不十分であることは論を待たない。
それを上回る規制として、地区計画や建築協定があり、敷地規模や景観などに関することも定められる。しかし、周知のように合意形成の難しさから実現は容易ではない。その結果、住宅の市場価値さえも不安定になる。例えば、目の前に高層建築が建てば市場価値は大きく下落するだろう。
建築とは、その言葉自体に「外部効果をもつ存在」という意味が含まれている。それを踏まえて、住み手と地域住民の住宅の評価を一致させる仕組みを研究することが重要だ。理想的には、一般規制を厳しく(ダウンゾーニング)した上で、地域住民が評価する計画にのみボーナスを与える仕組みが考えられる。さらに、小街区スケールにおける形態ルールも重要である。
例えば、欧州の中庭型街区では、道路側に加えて、中庭側に面する所有者相互の取り決めにより、建物の日照と通風を確保するルールが成立しており、しかも、個別の建築更新や売買があってもルールが継承される。日本でも建築協定をこのような小街区に適用すれば、同様な仕組みがが実現できる可能性があろう。これにより、住み手と地域住民の評価が自然に一致するようになることが目標になる。
つまり、スケルトンとインフィルの仕組みに加えて、街区レベルの合意による形態ルールの設定により、住まい手にとっての価値、地域住民にとっての価値、そして市場価値の3つが一致することが理想である。
おわりに:一人一人の生活からみた住宅の価値
本稿の趣旨を要約しよう。
明治期までの「家」重視(封建的家族像)のあり方から、大正デモクラシーの時代には、中流階級(近代的家族像・ホワイトカラー核家族)の台頭を受けて生活者尊重・個性尊重の風潮が芽生えた。しかし、戦争の勃発を経て、戦後は、極端な住宅不足を背景に供給者主導の大量供給の時代を迎えた。大量供給の実現には標準設計が求められ、その計画において「生活から建築を考える」という視点の重視が提唱され、以後の建築計画学の成立基盤となった。
その後、1970年代以降になると住宅不足が解消されるとともに「個性尊重」の主張が登場し、一般市場においてもライフスタイル調査が注目されるようになった。しかし、1990年代以降は、ストック重視・中古流通重視の流れの中で、個性尊重への疑問が提起されるようになった。これに対して、インターネットの発達による個性的住宅の流通可能性と、スケルトンとインフィルの分離による市場と個性重視の両立が期待されている。
一方、地域社会に眼を転じると、マンション紛争の多発にみるように、市場価値と地域住民の評価のズレが依然として未解決課題として残されている。
以上の経緯の中で、「一人一人の生活から住宅の価値を考える」というモットーは、第一に、生活の視点を重視する立場の表明であり(生活価値の重視)、第二に、生活価値と市場価値にはズレがあることを認識することであり(市場価値との乖離)、第三に、生活価値には住み手と地域住民の視点があることを確認することである(生活価値の二面性)。そして第四に、これらのズレを克服する方法を探し求めることを目標とすることである(生活価値と市場価値の一致)。
その一般的解決策として、スケルトンとインフィルを分離し、スケルトンは性能水準と町並みへの配慮を重視、一方のインフィルは自由設計システムを重視する。そして街区レベルでは合意形成による形態ルールの設定を目指す、ことが必要であると考えている。
もちろん、一人一人の生活からみた住宅の価値と住宅の市場価値を一致させることは容易ではない。しかし、難しいからこそ、研究、提言、実践する面白さがあると思う次第である。
<参考文献>
1)祐成保志「住宅”の歴史社会学―日常生活をめぐる啓蒙・動員・産業化」新曜社2008.10
2)高田光雄「二段階供給 (スケルトン・インフィル) 方式の課題と展望」都市住宅学41号、pp2-7、2003