KOBAYASHI HIDEKI'S COLUMN 2020

<Columnに戻る
2020.05.03 「住宅」1999年8月号より一部加筆修正

集合住宅の現代史をどう読み解くか-将来展望に向けて

(掲載にあたって)
 この論考は、1999年と20年前に発表されたものですが、集合住宅の現代史を理解するために今日そのまま通用するものです。将来展望の部分は、今日の状況にあわせて加筆修正しました。

はじめに -歴史の大きな流れと多様性

 今日の集合住宅を考える時に、その歴史から学ぶことは多い。集合住宅がどのような発達を遂げ、現在どのような状況にあるのかを知れば、今日の計画課題も自ずと鮮明になるからである。
 ところで、集合住宅計画の現代史をみるときには、二つの視点が不可欠である。一つは、近代化と呼ばれる大きな流れに着目する視点である。もう一つは、階層や地域による多様化に着目する視点である。
 私たちは「現代は多様化している」という一言で済ませて、大きな流れをおろそかにしたり、その逆に、歴史を一本の流れで眺めて階層や地域による差異を軽視したりしがちである。実際は、大きな流れが確かに存在しつつ、同時に、いつの時代においても多様な差異が併存するのである。
 ここでは、まずその大きな流れを概観し、次いで多様化の諸相について考えてみよう。これらを通して今日の集合住宅計画の課題を展望してみたい。

産業社会とともに発展した日本の集合住宅

 日本の集合住宅の大きな流れは、近代化とその見直しの過程として描くことができる。ここでいう近代化とは、産業化によって台頭した都市の中流階級(サラリーマン層)の住宅像の確立であった。これは、大正時代前後から始まり、戦後の高度成長期を通じて集合住宅計画を規定し、昭和時代の末に一応の完成を遂げた。そして、その頃から次の住宅像の模索が始まっている。以下、概観してみよう。

1)黎明期:一戸建を越える魅力を求めた時代・戦前

 我が国の集合住宅は、欧米の集合住宅の導入という性格をもって登場した。明治末は木造アパートの形をとったが、大正から昭和初期にかけて発展し、お茶の水文化アパートや同潤会アパートに代表される不燃構造の本格的な集合住宅が登場する。これらは、都市の不燃化という政策意図を背景としつつも、当時台頭しつつあった中流階級(現代のサラリーマン)の生活の合理化を求めたものであった。
 当時のアパートは、建設費が在来木造の数倍に達しており(下図)、家賃水準は高かった。逆にいえば、建築計画上はそれでも入居したくなるような集合住宅ならではの魅力が必要であった。具体的には、食堂や共同浴場等の共同施設が充実していること、女中に頼らない生活を可能にする水道やガスなどの近代的設備をもつこと、そして生活様式の洋風化等である。これらの課題をうまく実現したことで、アパートは、長屋とも一戸建とも異なる合理的住宅として中流階級の人気を得ることになった。

2)普及期:住まいの近代化をリードした時代・戦後

 戦後から高度成長期にかけての集合住宅計画は、公共主導の近代化によって特徴づけられる。
 産業化の進展により台頭した都市サラリーマン層は、第二次大戦による停滞があったものの、戦後の高度成長期にはいって急速に社会の中心を占めるようになる。その住宅問題を解決するために、公共主導による集合住宅建設が始まった。戦後まもなくは公営住宅がそれを担い、高度成長期には住宅公団が主役となり、そして、高度成長末期からは民間マンションがそれに加わった。
 この頃から都市化の進展とともに大量の労働者が都市に流入したが、その大部分は木造零細アパートに住んだ。不燃の集合住宅は、もっばらホワイトカラー・サラリーマン層を対象としていたわけである。
 そこでの建築計画の目標は、住様式の近代化であり、その象徴がダイニングキッチンの提案であった。屋外をみると、豊かな緑と日照を確保した快適な環境が実現した。そこに住む人々は、親元を離れた核家族であり、専業主婦と職住分離によって特徴づけられる郊外生活が展開した。
 こうして、アパートは世間の好奇の視線を受けながらも近代的住まいの象徴となり、一戸建住宅を含めた我が国全体の近代化をリードするのである。
 しかし、専業主婦に支えられた生活は、食堂などの共同施設への要望を低下させ、また互いに職業上の利害を共有しない社会の中で、鍵一本で没交渉になるプライバー重視の風潮が一般化した。このような中で、建築計画においては戦前の共同生活の思想は後退し、また、住戸計画と集合計画を関係づけようとする意図も薄らぐことになる。

3)定着期:集合住宅の大衆化が進んだ時代・昭和末

 高度成長期の末から安定成長期は、集合住宅の大衆化時代として整理できる。この時期になると、集合住宅の大量供給によって建設費は低下し、その一方で土地価格が高騰したことから、一戸建住宅よりも家賃や価格が安くなる時代を迎えた。これによって民間マンションが台頭することになる。
 また、一戸建住宅においてもダイニングキッチンや水洗便所が普及するようになり、アパートの魅力は相対的に低下した。しかも、サラリーマンの理想は郊外の庭付一戸建であり、集合住宅は、それを獲得するまでの若いファミリーの住宅として位置づけられた。つまり、「住宅双六」と呼ばれる住み替えストーリーが成立するのである。
 これ以降の集合住宅計画は、一戸建住宅を理想としつつ、それに近い環境をいかに安い価格で実現できるかが勝負になった。建築計画における不毛な時代の始まりといえる。つまり、敷地に戸数を多く詰め込むこと、共用空間は切り詰めること、隣戸や廊下からのプライバー確保を優先した設計にすること等が、建築計画の主要課題であった。
 昭和40年代末から50年代にかけての急激な経済変動により、公共主導から民間主導への変化、低層住宅の復活、地方性重視などの動きが顕在化したものの、集合住宅計画の大きな流れは変わらなかった。 わずかに市場原理から自由な公共住宅の一部で、豊かな共用空間を設けるなどの意欲的な試みが展開するが、部分的な流れにとどまった。

4)成熟期:近代化の大きな流れが転換した時代・平成

 昭和60年代から平成時代は、バブル経済の発生やその後の不況といった経済変動の中で、集合住宅計画が大きな変化をみせ始める。
 その変化とは、これまでの計画を支配した「核家族サラリーマンの生活の合理化」というテーマが、ようやく変化しつつあるということである。それに代わって、単身者や高齢者の集合住宅居住の重視、住宅双六の破綻と永住志向の増大、それに伴う自由設計の広がり、共働き生活を支える共同施設の重視や、職住近接・一体化の試み、等々が話題となる。さらに、ホテル型のサービスが付いたマンションも登場し、郊外の専業主婦モデルからの転換が鮮明になった。
 これらは、集合住宅ならではの特性を生かす動きである。つまり、再び、「一戸建を越える魅力を求める」ことが主要課題となる時代が始まったのである。

追記:平成時代後半(2005年前後)から「5)再生期:ストックを再生・利用しつつ発展を模索する時代」になったと考えている。

集合住宅の多様化の諸相-階層差

 以上の大きな流れは、わが国の産業化の中で集合住宅が担った役割から自ずと規定されるものである。そして、この底流は、発展途国に共通するものといえる。
 その一方で、いつの時代にも、この本流とは別の特徴をもつ集合住宅が存在する。それらは、数が少ないとしても社会に与える影響が大きい場合がみられる。まず、居住階層の差異に注目してみよう。

1)階層による多様な集合住宅の存在

 黎明期をみると、当時を代表する中流階級向けアパートの一方で、社会の最下層の人々が住むスラム改良においても集合住宅が建設されている。
 これらは、政府の補助により成立するもので、建築計画をみると、中流階級向けは階段室型が多かったのに対して、概して廊下型が多い。また、室内の計画は和室を中心としている。
 つまり、中流階級向けアパートが洋風化・近代化を強く意識した一方で、いわば日本の「長屋」を立体化したイメージの計画が併存していたのである。

 戦後においても、公団アパートに代表される中流階級向けの集合住宅が中心を占めるが、この時期になると、中流階級そのものが大衆化し(戦前の中流階級はほんの一握りエリート層である)、その代わりに、会社の社長や著名な俳優などの富裕層が住む高級マンションの系譜が鮮明に現れる。これらは、純洋風の間取りと、ランドリーなどの共同施設を特徴とし、戦前のお茶の水文化アパートの系譜に位置づく。
 その後、安定成長期以降になると一億総中流化といわれるように、従来の階層差が薄らぐ。集合住宅計画においては、公団から民間高級マンションに至るまで、洋室が中心の3LDKが主役となる。わずかに、公営住宅や零細アパートにおいて和室中心の間取りが残る程度となる。
 そして、平成時代になると、公営や零細アパートにおいても洋室が中心になり、従来の差異が完全に薄らぐ。それに代わって、家族構成やライフスタイル等による計画の差異が重要になり、階層そのものの意味が変質していく。

2)トリックルダウン理論

 以上の階層による差異が、現代史の中でどのような役割を果たしているかを説明する理論に、トリックルダウン理論(流れ落ちるという意味)がある。これは、流行は上流階級から下流へと波及するという古典的理論である。この理論は、わが国の集合住宅の普及過程においても成り立つ。
 大正時代の中流階級とは、産業化の初期を担うエリート層であり、実質的に上流階級といってよい。つまり、集合住宅は上流階級の住まいとして登場した。一方、この時期にスラム改良住宅が登場しており、トリックルダウン理論とは矛盾する。しかし、これは公的補助によって市場理論とは別に成り立つものであり、その結果、上下の二極分化が生じ初期の集合住宅を特徴づける(図2)。公的補助住宅は、トリックルダウンの時期を早める役割を果たした。
 戦後になると、サラリーマン層の大衆化とともに、集合住宅が本来の意味での中流階級に普及していく。これを主導したのが住宅公団のアパートであった。
 そして、安定成長期以降には、集合住宅が全ての階層にとって当たり前の住宅となり、トリックルダウンの第3段階へと到達したとみられる。

 一方、間取りの洋風化に着目すると、これは流行に近い面があるため、より直接的にトリックルダウン理論に従っている。高級集合住宅は、常に洋室を中心とした間取りをとっており、中流階級向けは、2室が和室という時代が長く続いた後で、3LDKの時代になって和室が1つの洋風化が定着した。まさに、トリックルダウンしながら洋風化が定着していったことがわかる。
 以上の理論に照らすと、次の時代の集合住宅の様式を予測するには、現在の高級マンションの動向に着目することが有効かもしれない。例えば、便所やシャワーの複数化、内装のオーダーメイド化等が、これからの計画課題としてあげられよう。

集合住宅の多様化の諸相-地域差

 我が国では、公営住宅と大企業の社宅(鉄道官舎や炭鉱住宅等)を通して、地方都市に集合住宅が普及していった。その初期には、地方で未経験の建設を実現するために標準設計に従うことが不可欠であった。このため、全国的に集合住宅計画が標準化され、地域差はほとんどみられなかった。
 それが昭和50年代になると、各地域の気候風土に配慮して、それに適した集合住宅の計画手法が模索される。例えば、北海道では、積雪寒冷地に適合するために開放廊下よりも階段室型をとり、その下にスノータイヤなどの収納する屋外物置を設置する計画がみられる。また、北陸地方では、積雪によるバルコニーの使いにくさを解消するために、サンルームが一般化している。逆に、九州では、玄関まわりに土間を設け屋外に開放的な間取りがみられる。
 これらの差異は、集合住宅の導入当初からあったものではなく、むしろ集合住宅が各地域に定着していく過程で生み出されたものである。
 集合住宅は、入居者が親元を離れた流動層であるため、その地域の伝統や慣習から比較的自由である。また、新しい建築技術であるため、地元でとれる材料よりは、全国的に流通する材料で建設される部分が大きい。このため、在来木造住宅に比べると、もともと地域差は少ない。
 そのような中で、集合住宅の地域性は、伝統的な慣習というよりも、気候風土への対応や都市化度への対応などによって新しく形成されてきた。その結果が、今日の多様化を生み出しているのである。

現代史に学ぶ今日の計画課題

 都市には、いつの時代も多様な人々がいる。集合住宅は、我が国の産業化が急速に進む中で、それに伴い台頭した中流階級(サラリーマン層)の住宅像の確立を担って発達した。その結果、集合住宅計画を特徴づけるキーワードは、「若い核家族、サラリーマン、職住の分離(郊外居住)、専業主婦」であり、昭和時代を通じての集合住宅計画は、このキーワードに沿ったものであった。

1)現代の主要な課題

 しかし、昭和時代の終わりから平成時代になり、このような位置づけが変化する。その背景には、かつてのサラリーマン層が定年後を迎える中で老後の住まいとして集合住宅が再評価されたり、あるいは、都市の再生が進む中で、商店街や下町地域での集合住宅の一般化が進んだこと、などがある。
 その結果、集合住宅には、一人暮らし高齢者や共働き、さらに近居やシェア居住等により多様な家族が住むのが当たり前となり、しかも集合住宅で生まれてそこで生涯を終えるのも当たり前の時代に入った。これに伴い建築計画においては、共用施設や生活サービスが重要になり、また永住の住まいを求めたフリープランやリフォーム等が課題になる。
 さらに、郊外ではなく既成市街地での比重が高まり、職住一体化の要請もみられる。例えば、SOHOと呼ばれる小規模オフィス併設住宅が登場する。
 その一方で、地域差や階層差によって、多様な計画が同時に展開している。ここに至って、ようやく我が国の集合住宅は、ごく普通の都市住宅として成熟期に入ったということができるのである。

2)持続可能な集合住宅とは

 そして、このような現代史を通して、最も基本的な課題も鮮明になっている。それは、時代変化や多様化の中でも価値を失わない「持続可能な建築形式の実現」ということになろう。
 つまり、これからの集合住宅は、今日の生活スタイルや経済情勢に合致していれば良いというものではない。何世代にもわたる持続性がなければならない。例えば、スケルトン・インフィル分離型の住宅が一つの回答である。そこまでいかなくても、広い面積と高い階高、そして、豊かな共用空間と住戸の内と外の閉鎖性の緩和、という基本があれば、それだけでも十分に持続的であるといえる。
 現在の需要者のニーズに適合しつつも、百年先を見据える集合住宅計画が、現代の最も基本的な課題であるといってよかろう。

3)集合住宅ストックの再生(加筆)

 以上のあり方が令和時代においても集合住宅の基本になるが、あわせて、平成時代後半(2005年頃から)は、これまで建設された大量の集合住宅ストックの「再生」が重要になっている。そこでは、二つの方針が検討される。一つは、建替えや改修により、現代の集合住宅の水準に近づけるものである。例えば、改修では住戸面積の拡大を図るための2住戸の合体や、断熱性等の基本性能の向上、さらにエレベターの増設などが課題となる。
 そして、もうひとつは、既存集合住宅の利用方法を工夫することである。例えば、ファミリー向けに作られた住戸をシェア住宅として利用したり、逆に単身用アパートを複数利用してグループホームとして利用することである。また、エレベータ増設の代わりに、上階に住む高齢者が下階に住み替えるシステムを整えることも一案であろう。
 加えて、住宅以外の用途、例えばデイサービス施設として利用することも検討したい。そのために大がかりな改修を行うことがあってもよいが、むしろ、できる限り現在のまま軽微な改修で済ませることが経済的には求められる。必要に応じて建築基準の規制緩和も課題となろう。

 集合住宅は、分譲マンション、公的住宅、民間アパート等の形態をとりつつ日本の都市住宅として普及し定着した。次なるストック再生の課題については、もはや欧米というお手本は存在しないと認識しなければならない。日本の文化慣習を踏まえつつ、西欧とは異なる地震国という制約を乗り越えて、われわれ自らが開発していかなければならない。それを実現するための英知は、これまでの集合住宅の歴史を通して十分に蓄積されてきたと考える次第である。

<参考文献>
1)「日本における集合住宅の普及過程」日本住宅総合センター、1997.8
2)「これからの集合住宅」建築技術、1999年1月号
3)「日本のおける集合住宅の定着過程」日本住宅総合センター、2001.5

<Columnに戻る