HIDEKI'S COLUMN 2017 NEW

2017.04.14 書き下ろし

「集住のなわばり学」が手に入らない : コミュニティからテリトリーへ

(掲載にあたって)
 最近困ったこと、嬉しかったことをメモします。私の著書「集住のなわばり学」をめぐってのことです。

コミュニティからテリトリーへ

 私の博士論文は、集まって住む(集住)理論を求めてテリトリー(なわばり)から生活と空間のあり方を解明したものだ。ところで、集住ではコミュニティという言葉がよく使われる。これは、人々の生活の基盤にある地域社会を表しているが、時々、「隣人どうしの親密な交流」という意味で使われる。このため、現代都市ではコミュニティは不要だという主張をよく耳にする。それに一つ一つ反論すると、コミュニティの定義をめぐっての哲学論争になり、私のような実践学の徒には荷が重い。そこで、私は、現代都市に必要な概念を明確にすべく、あえて「コミュニティからテリトリーへ」と言っている。

 現代都市では、隣人どうしの交流は希薄化している。しかし、安心して暮らすためには必要な条件がある。それがテリトリーだ。人々は住まいやその周辺を「自分あるいは自分たちが関与する場」つまりテリトリーと認識する。それを通して、防犯性を高める自然監視、相隣トラブルの解決、ゴミが落ちていたら拾うとなどの行為が自然に生まれる。逆に、誰も自分たちのテリトリーと思っていない場では、犯罪者が容易に入り込み、荒れた雰囲気になり、居住の安心感は失われる。そのような場には、誰も住みたくないだろう。

 では、自宅周辺の道、マンションであれば廊下階段を人々がテリトリーと意識する条件は何か。一つは、自然監視しやすい空間のつくり方、もう一つは、そこを利用する人々と「顔見知りであること」だ。別に親しくなる必要は無い。隣人かよそ者かを区別できればよい。

 つまり、顔見知りであることが、都市に安心して住むための最低条件なのである。コミュニティ否定論者は、顔見知り関係程度はコミュニティとは言わないようだ。そこで、あえて「コミュニティからテリトリーへ」としたわけだ。ちなみに、顔見知り関係が広がった地域集団は、本来はりっぱなコミュニティである。

 都市では隣人と親しくなる必要は無い(もちろん、なってもよいが)。しかし、せめて「顔が分かって挨拶する関係」を生み出したいというのが、この標語の趣旨である。

卒論生のゼミで利用している

 私の研究室では、卒論生は最初に本読みゼミを行う。自分の好きな本を要約し、その中から議論したい部分を抜き出して紹介する。その後1時間近く、他のメンバーから質問攻めにあう。質問する方も順番に回ってくるから気は抜けない。こうして、発表者は約1時間しゃべりっぱなしになる。
 途中で頭が真っ白になったり、終わるとぐったり疲れるそうだ。しかし、それは対話の訓練になる。コミュニケーション能力開発の第一歩である。

 そのゼミで、私の著著「集住のなわばり学」を指名して紹介してもらう。都市に暮らすことの意味を考える上で、この理論は最適だと思うからだ。


本が手に入らない

 この本は絶版になっているから学生に貸し出している。そして、いつの間にか1冊しかなくなってしまった。
 今年のゼミ用に私の部屋の本棚を探しているが見つからない。そこで、中古本を何冊か購入しようとネットをみた。5年ほど前に2冊購入したときは、定価2400円が4千円ほどであった。今回は、中古本が品切れだ。1冊見つけたが、なんと1万円を超えている...絶句。

 購入するかどうか迷いながら、このメモを書いている...買うしかないか。

藤谷君が建築学会奨励賞を受賞した

 ちょうど同じ頃に朗報があった。研究室で博士論文を書いた藤谷英孝君が、日本建築学会・奨励賞を受賞したという連絡だ。嬉しい。
 テーマは、集住のなわばり学を書いたときに調べた住宅地と同じ場所を、同じ調査票を用いて「30年後」に調査したものだ。昔の理論が現在も通用するかどうか、それがテーマであった。その結果は、ほぼ通用するということであった。しかし、昔に比べて犯罪不安感が高まっており、家族人数も減っている。人の眼による自然監視の重要さは変わらないが、オートロック等の防犯設備も適宜取り入れることになろう。

なわばり学は時代を超えて通用する理論

 時々、嬉しい書評を眼にする。「古い本だが、現在でも十分に参考になる」というコメントだ。集住のなわばり学は、1992年に出版された。つまり25年前だ。その本が1万円以上の高値で取引されるとは、ある意味嬉しい。実は、この本を書くときに恩師(鈴木成文先生)に次のように言った。建築学の本は、時代が変わると社会状況や技術が変わるので役割を終えることが多い。しかし、「私は、時代を超えて通用する『生活と空間の一般理論』を発見したい。30年後も役立つ本にしたい」と言った。若気の至りだ。
 その思いは、幸運にも現実のものとなった。ありがたい...しかし、自分の本に1万円以上払わなければならないとは。

追伸:無くなったと思った集住のなわばり学は、研究室の本棚に学生がしっかり管理して保管していました。しかし、それが分かったのは発注した後のこと...手元に計3冊!

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