HIDEKI'S COLUMN 2015 NEW

2015.04.10
日本建築学会PD「計画的住宅地は持続可能か」2011年8月より

持続可能な暮らしは「共助」なしには成立しない

(掲載にあたって)
 シンポジウム原稿として「共助」の大切さを示したものです。本コラム掲載の「市場主義の過剰」の中で最初に提起した内容ですが、2011年の震災後のシンポジウムで、その思いを新たにした次第です。
 昨年12月に発刊した「もうひとつの住まい方のすすめ」では具体的な共助の暮らしを紹介していますが、その基底にある理念ですので改めて掲載します。

はじめに−住宅地が持続可能であるための条件

 住宅・住宅地が長期に安定して持続するためには、老後や子育てなどの生活を支える各種サービスとその対価の支払い(金銭に限らず広い意味)が世代を越えて循環する仕組みが確立していなければならない。この仕組みがないと、住宅地と建物というハードは整備されても、そこに安心して暮らし続けることは困難になる。
 とりわけ、人口減少社会では、老後まで安心して「住み続けられない」住宅地は、市場での競争力を失う。その結果、次第に衰退し淘汰されることは避けられないのである。

 では、子育てと老親扶養を支えるサービスとその対価の支払いの仕組み(これを扶養システムと呼ぶことにしよう)は、どのように成立しているだろうか。
 前福祉国家では、このシステムは、もっぱら家族・親族の内部で担うものであった。つまり、子育てや老親の扶養、さらには障害者の扶養は、家族や親族の相互扶助によって支えられており、加えて、集落では地域共同体がその一翼を担うことが一般的であった。

 これに対して、社会の産業化が進み、人々がいわゆるサラリーマンになると、就業地は生まれ故郷に限定されなくなる。それとともに、親子同居による老親扶養は困難になり、また、その裏返しとして(祖父母に子どもの面倒をみてもらって若夫婦が働くという仕組みが失われるため)子育ての社会化が求められる。

 このようにして、産業社会の進展と福祉の充実は並行して進んできた。この背景には、産業の担い手となる労働者を安定して確保するためには、福祉の充実によって家庭に縛られない人材を生み出すという産業側の要請もあったといわれる。

福祉国家の幻想:個人単位の福祉の限界

 このような産業社会の進展と福祉の充実の中で、私たちは、無意識のうちに住宅地の持続可能性を以下の仮定のもとにみている。

 それは、有償無償にかかわらず、福祉サービスを利用・購入し、「個人または核家族単位」で、自らの生涯の人生設計を描くという前提である。その根幹に、世帯ではなく個人を対象とする傾向を強める年金等の福祉制度があることはいうまでもない。

 そこには、子世帯が老親を扶養することも、逆に、祖父母が若夫婦の子育てを支援することも期待しない。というより、期待したくても、今どき同居を希望する若夫婦は希であり、また、親子世帯で助け合えと言えば、時代錯誤だと批判されるのがオチだろう。

 では、単純な質問をしたい。

 このような老親扶養と子育ての社会福祉への依存は、将来とも持続可能なのだろうか?
 結論を先に言えば、筆者は、財政危機を受けて持続可能でないと判断している。その結果、住宅・住宅地の将来を展望するためには、公的福祉に代わる新しい扶養システムを展望することが不可欠である。このことが住宅地の持続可能性のあり方を決定的に左右するからである。

「共助」を求める社会情勢

 図は、筆者が度々用いている、住まい街づくりを中心とした政策選択のモデルを示したものである。

 まず、政策理念を整理するために、2つの軸を設定する。縦軸は、市場での自由な競争重視か、それとも、助け合い重視かという軸である。前者は、いわゆる市場主義を指すが、そこにおける政府の第一の役割は、競争が適正に行われるように市場のルールを整えることである。ただし、自由競争の貫徹は、競争からこぼれ落ちる敗者や弱者を生み出す。そこで、政府のもう一つの役割は、救済のセーフティネット(安全網)を整えることである。このため、市場主義と福祉は矛盾するものではない。

 一方、自由競争を大切にしない立場とは、例えば、法規制に守られた産業のあり方、あるいは政府系企業による独占的な事業等があげられる。これらは、昨今批判の的となっている守旧派のイメージだが、その一方で、競争の回避には、互いに助け合うという意味がある。例えば、地縁や血縁による助け合いが、人々の生活において大きな役割を担ってきたが、それは市場競争とは無縁であろう。そこで、競争重視の対となる政策理念として、助け合いの重視を位置づけることにする。

 そして、横軸は、大きな政府か小さな政府かという軸である。大きな政府とは、政府が関与する活動領域が大きいことを指し、一つは、税収と政府支出を多くすることであり、もう一つは、民間の活動を方向づける様々な法規制が多いことを指す。そして、小さな政府とは、その逆に収入と支出を小さくし、規制緩和を進める方向である。以上の2軸を組み合わせると、図の4つの象限が描ける。

(1)第一象限−理想的な市場主義

 第一象限は、自由な競争を重視する一方で、セーフティネットのための福祉・公助を充実する立場であり、いわば理想的な市場主義である。ところが、これは、現在より、さらに大きな政府を求める。その理由は、定期借家権の議論が示すように(詳しくは文献1参照)、規制緩和は民間に内在している居住福祉を解体することにつながり、そこからはじき出された低所得者を政府が救うとなれば、政府の福祉負担は、今までより増えるからである。つまり、現在より大きな政府を求める。

(2)第二象限−競争重視の世界

 しかし、現実は、厳しい財政難の中で公的福祉を充実することは難しい。その結果、民間に内在する福祉を解体する一方で、それに見合うほどは、政府が行う福祉を充実できない結果に陥る。このため、いわゆる弱肉強食の性格が強まる。これを新自由主義と呼ぶこともある。

(3)第三象限−共助の再構築

 では、弱肉強食を避けるために、第四象限のような官助重視に戻ることはできるだろうか。それは財政的にも政治的にも難しいだろう。とすれば、残された道は、第三象限しかない。

 第三象限とは、小さな政府で、かつ助け合いを重視する立場である。これは、かつての伝統的な共同体の暮らしを原型とする。つまり、血縁、職縁における助け合いによって暮らしの安定をはかる立場である。とはいえ、今さら昔の共同体のあり方に戻ることはできない。それは、せっかく家族・親族・企業から、公的社会保障へと外部化してきた失業対策、老親扶養、住宅補助などを、再び内部化することを意味するからだ。このことは、人々の職業や居住地の選択の自由を制限することにつながり、個人的にも産業的にも大きな痛みを伴う。

 そこで、期待されるのが、政府に頼らない新しい「共助」(ここでは互助を含む)の再構築である。

「共助」を求める暮らしの工夫

 具体的な共助の暮らしの例をあげてみよう。
 例えば、コープ住宅やコレクティブハウスにおける居住者の協同の重視がある。また、ルームシェアが、今日急速に拡大している。これは、一人当たりの家賃や水道光熱費を低減することはもちろん、防犯上の安心感、仲間といる楽しさ等を実現し、共助の一つの形態となっている。

 さらに、公的福祉を補うためのNPOの活動も注目される。例えば、孤独死防止の見回り活動、高齢者に買い物を宅配する助け合い活動、働きながら子育てをする主婦が助け合う子ども預かり活動などである。

 一方、親子世帯が近居や隣居できる場合は、互いの助け合いを再評価する傾向が強まるだろう。つまり、子育て支援と老後不安の解消を、親子世帯のギブ&テイクにより解決しようとする現代的な血縁関係の構築である。

 いずれにしても、国家の財政難が深刻化する中で、老後や子育てに関わる新しい扶養システムとして、血縁に限定されない新しい「共助」の仕組みを工夫していくことが求められる。これからの持続可能な住宅・住宅地のあり方は、このような仕組みを、どのように確立できるかにかかっていると言っても過言ではないのである。

参考文献
1)小林秀樹「市場主義の過剰を糺す」住宅総合研究財団,すまいろん2007年夏号,pp.36-41,2007.7
2)小林秀樹「縮小社会における都市・家族・住まいのゆくえ」住宅総合研究財団、2011年7月シンポジウム基調講演原稿
3)AHL推進協議会の活動(ホームページ)参照のこと