2014.11.26
単行本 小林秀樹「居場所としての住まい」新曜社 2013.8より
居場所としての住まい
学生の頃からの研究テーマ「なわばり学」から住まいと家族の深層を解明したものです!
集まって住む暮らしと空間の原理を描いた「集住のなわばり学」の姉妹編
ナワバリとは、家族一人一人が「その場所を自分のものだと思い、コントロールするところの一定の範囲」のことである。言い換えれば、誰がその部屋を使っているかではなく、誰が空間のしつらえ等を決めているかに注目する。
この視点から調べると、日本の子ども部屋は、子どもが成長するまでは「母親の場」であることが多い。平均すると、小学校高学年から中学生にかけて、子どものナワバリへと移行する。一方、米国では、子どもが0歳児から個室で寝ることが多いが、やはり小さいときは、個室は「親の場」である。しかし、父母の一方に偏ることなく、「両親の場」となっている。
日本の住まいの近代化においては、「夫婦平等で居場所をもつ」ことが理想とされたが、平等のナワバリは近年増えているものの数は少ない。そして、夫婦一緒ではなく、「夫婦別寝」も日本では抵抗なく受け入れられている。
***床上文化が育む家族温情主義***
これらの実態は、日本の住まいでは、父母のどちらかが主導する「順位制」に慣れ親しんでいることを示している。とりわけ、現代の住まい方は、「温情集団」の特性に一致する(図)。その背景には、靴を脱いで床に上がる暮らしが家族の一体感を育みやすいという住文化があり、これは、住まいが近代化しても簡単には変わらない特徴となっている。
ナワバリからみた集団タイプの分類
図は、集団特性の分類である。日本では、昔の家父長制に基づく封建家族から、現代は母親中心の温情家族に転化し、そして子どもの成長とともに友愛家族に成長するパターンが多い。一方、米国の中流家庭では、協同家族や二律家族が観察される。これらの違いは、部屋がフスマで続いている形式が多い日本の住まいの間取りと密接に関わっている。
しかし、住文化に善し悪しはない。日本では、母親と子どもの添い寝から始まる温情的な住まい方を「ありのままに」受け入れ、そして、年齢とともに徐々に自立に向かうことで問題はみられない。
ただし、現代住宅では、庭を除いて父親のナワバリが希薄だ。それが時には、母子密着のマイナス面を引き起こす。これを見直すためには、父親も部屋のしつらえに関心をもち、夫婦平等のナワバリ意識を求める努力が大切だ。また、母子家庭などでは、複数の家族が集まって住む新しい形の住まいを求めることも一案だろう。
誤解しないで欲しいのは、間取りの問題は、その形式にあるのではない。その間取りに適した住まい方をしているかどうかというマッチングにある。自分の住まいの間取りを確認し、そして、それに適した住まい方とは何かを知ることが大切である。
幸いなことに、日本において定型化している3〜4LDKの間取りは、居間と和室等がフスマでつながり、個室重視も一体感重視も受け入れる柔軟性のある間取りとなっている。つまり、多様な住まい方を受け入れる。最近では、個室は確保した上で、居間を中心にした間取りが人気だが、これも柔軟な住み方を可能にする。その自然発生的な日本の知恵を称えたい。ただし、住まいの外部に対する閉鎖性は、高齢社会を迎えて見直したいテーマである。
詳しくは、拙著「居場所としての住まい」新曜社、を参照して下さい。
夫婦のナワバリ判定の方法や、子ども部屋のあり方、シェアハウスのナワバリ、日本の住まいの間取りの特徴と歴史、等が分かりやすく紹介されています。
(追記)本書への賛否両論
本書について、いろいろな方から賛否両論の評価を頂いた。一般の方からは、夫婦のナワバリ占いや子どものナワバリ判定が楽しめるという声や、同じ住居学からは「歴史の残る名著」というお褒めの言葉も頂いた。しかし一方で、建築家には概して評判が悪い。
それも道理である。「ありのままに」という本書の結論は、新しい住宅を提案しようとする建築家の努力に水を差す懸念があるからだ。しかし、現代の多くのnLDK住宅は、固定的な住まい方を強要せず、柔軟な住み方を可能にする優れた間取りであることは正当に評価したい。普通の人にとっては、住まい方を強制されるのではなく、住みやすいこと、住みこなし甲斐がいがあることが、良い間取りだと思う次第である。
もちろん、今日、建築家の活躍が期待されるテーマは数多い。例えば、住まいの外部に対する閉鎖化の見直し、住宅の内と外の境界のあり方は、私がもっとも気になるテーマだ(単行本:集住のナワバリ学を参照)。また、耐久性の向上や環境への配慮など、解決が求められるテーマも少なくない。これらは、まだまだ試行錯誤が続いており、建築家を含むいろいろな立場からの提案が求められている。
ところで、意外な批判も頂いた。それは、家づくりの場面では、お金を握っている人(多くは父親)が決定権をもっており、母親主導はみせかけだという批判である。この批判をされた方は、住まい手にどれだけ寄り添っているのか心配になる。一つは、主導権のあり方は普通の会話では分からないことが多い。だからこそ、ナワバリから間接的に推定することが必要なのである。そして、ナワバリ学では役割分担型の存在を指摘している。これは、日常の暮らしは母親が主導するが、大きな物事は父親が決めるというタイプだ。たぶん、その方は、このタイプの家族に出会ったのではないだろうか。
さらに、お金を握っているからと父親の意見で造った書斎が、完成後は使われずに物置代わりというのはよく聞く話である。日常の暮らしを知り、お金を握っている人に、普段の住みやすい間取りはこうですと提案していくことが、住まい手に優しい家づくりではないだろうか。
いずれにしても、賛否両論があることは、それだけ注目していただいたことである。
幸せの至りである。
|