HIDEKI'S
COLUMN 2007
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2007.09.21
住宅総合研究財団「すまいろん」2007夏号より
市場主義の過剰
住宅分野において「市場原理」や「市場メカニズム」という言葉をよく聞くようになったのは、1990年代に入った頃であったと思う。そして小泉改革時代に頂点を迎えた。
住宅は個人の財産だから市場原理に委ねるべきだ。市場原理に委ねれば、「神の見えざる手」によって資源の配分が最適化され景気もよくなる、という「市場主義」は切れ味がよいし心地よい。しかし、それが住宅の未来に禍根を残すのではという懸念が強まっている。例えば、スクラップ&ビルドの進展、建てすぎ壊しすぎ、住文化の軽視、住宅格差の拡大、公共の弱体化、等々。今日、市場主義の過剰を再考するときである。
もちろん感情的な批判ではなく、市場主義をいかに論破できるか、これが鍵を握っている。私は、一つは「時間不経済」という概念によって、もう一つは「市場主義が大きな政府を求めるというパラドックス」によって再考したいと思う。
市場主義への共感のはじまり
私は、1990年代は、どちらかといえば市場主義に共感していた。
最初に記憶に残っているのは、1990年代初頭、住情報に関する検討委員会の場であった。なぜ住情報が大切かについて、「情報の非対称性」という経済理論を持ち出して説明した。住宅の事業者側と、住宅の購入者側には知りうる情報に大きな差があり(非対称であり)、そのことが市場の働きをゆがめ(市場が失敗し)、良い住宅が高く評価されずに悪貨が良貨を駆逐する状態になっている。それを見直すためには、住宅に関する情報が公開される必要があるという説明だ。つまり、今日の「住宅性能表示」の説明と同じものである。
その説明に対して、建設省の若手官僚が詳しく知りたいと連絡してきた。私は経済学における「市場の失敗」の理論に基づいて拙い説明ペーパーを書いて渡した。当時の建設省住宅局には建築系学科の出身者が多かった。私自身も建設省建築研究所に就職して初めて経済理論を勉強したくらいだから、若手官僚はよく知らなかったと思う。彼の反応は、その当時の建設省全体に、市場メカニズムについて勉強しなければという雰囲気があり、その一つの現れだったのではと想像する。
定期借家権の創設も賛成であった
次に記憶に残るのが、平成12年施行の「定期借家権」の創設時のことだ。その10年ほど前の平成4年に「定期借地権」が施行されており、私は、それを用いて安価な住宅供給を可能にした「つくば方式マンション」(スケルトン定借)の実用化に成功していた。その経験もあって、借地借家における「契約自由」の大切さを理解していた。
契約自由とは、契約する当事者どうしが決めた自由な内容を尊重するものだ。法律においては、弱者保護等により当事者どうしの契約を無効にする措置がある。それをできる限り無くすのが契約自由を大切にする方向だ。つまり、一種の規制緩和である。借地借家については、弱者保護の名のもとに借り手の無理難題が目立っていたこともあり、私は規制緩和に賛成であった。
もっとも、学問的には、「広い面積の住宅ほど家賃単価が高いのは借家権保護の影響だ」「定期借家権ができれば家賃は下がる」という一部学者の論には疑問を抱いた。後者はよいとしても、前者の論は飛躍がある。住宅階層論を勉強した我々からすれば、広い住宅の家賃単価が高いのは、企業経営者や外国人など特殊な需要階層をターゲットにしているためというのが妥当な解釈だ。それを素直に主張した森本信明氏が批判されたときは(都市住宅学14号参照、1996年)、定期借家権の推進は賛成だか、その推進派の学問上の主張には一抹の不安を感じて複雑な気持ちであった。
その頃からだろうか。市場主義の論調に多少の違和感を覚え始めたのは。
そして、市場主義が「官から民へ」のかけ声へと転換し、公団公庫の改革に及ぶにつれて、その違和感は拡大した。
「時間不経済」による過剰なスクラップ&ビルドの発生
ここで、私の基本的な認識を紹介しよう。
ひとまず以下を認めることから出発する。それは、市場が適切に機能することが大切であり、市場が失敗する原因を取り除くことが政府の役割であるという点だ。これを否定すると、計画経済と市場経済の論争になり議論がすれ違う。
さて、以上を認めるとして、市場の失敗の原因としては、例えば、公害に代表される「外部不経済」(市場を通さないで他者に悪影響を与えること)、対価を支払わない者を排除できない等の特性をもつ「公共財」の存在、前述した「情報の非対称性」、独占禁止法に関わる「費用逓減型産業(寡占状態)」等が指摘されている。さらに、市場は成功しても、それが社会的には失敗とみなされる「貧富の差の拡大」(市場は効率を実現するが公平は実現しない)なども昨今話題になっている。そして、これらの失敗を解決するために政府の役割があると考えられている。
ここまではよいのだが、では都市・建築・住宅分野については、以上の認識で十分だろうか。私は、市場が失敗する決定的な場面が抜けていると考えている。
それは、建築や住宅は一度建設されると30年以上、時には100年以上という長期にわたって存在することに起因する。これに対して、市場は、その時々での最適化を求めるため、市場は適切に機能しても、長期的にみると過剰なスクラップ&ビルド、つまり壊しすぎ建てすぎを招く可能性が高い。これは、資源等の無駄遣いにつながり効率的配分に逆行する。
例えば、近年の規制緩和に伴う郊外大型店の発展を受けて、駅前デパートの経営が成り立たなくなり、建物についても取り壊しが相次いでいる。しかも、郊外大型店どうしの競争も激しく、店舗のスクラップ&ビルドが頻繁に生じていることは周知のとおりだ。このことは、商業施設の立地規制を緩和し、市場原理に委ねるだけでは、本来は長期に使える建物を過剰にスクラップ&ビルドさせてしまうことをよく示している。
このような長期に存在する財(長期財)を対象とする分野において、市場の働きが将来に対して悪影響を及ぼす現象を、「時間不経済」と呼ぶことにする。これを解決するために、政府が長期的視点から建築・住宅ストックの形成に関与することが求められる。
国家百年の計はやはり大事だ
以上の主張に対して、ある経済学者から次のような指摘を受けた。
では、将来を政府が予測できるのだろうか。これまでの経験は、政府も失敗することを示している。それならば、より中立である市場メカニズムに委ねるべきであり、その結果、よい街になるかもしれないし、スクラップ&ビルドが起きるかもしれない。後者であっても、最適状態に修正できたのだから望ましいことだ...と。
しかし、我々が知っている町家のたたずまいや、ヨーロッパの美しい町並みは、いずれも都市づくりにおける為政者の決断(独断というべきか)に基づいている。今流の言葉でいえば、強い都市計画によるものだ。それを踏まえれば、長期財を対象とする分野では、百年の計に基づくビジョンが大切ではないだろうか。そこで、次のように先の経済学者に反論することにしよう。
では、市場も失敗するのだから、調和のとれた街を生み出す可能性が少しでもある強い計画を求めるべきだ。仮にその計画が失敗したとしても、特色ある街として観光名所になるかもしれないではないか。市場原理に委ねた(規制緩和を進めた)街づくりは、効率の良さは実現するとしても、子孫に誇れる文化的特色をもった街を残さないばかりではなく、省資源にも逆行する。それよりはましだと。
長期財は、一般の消費財とは区別する必要があるのではないだろうか。
市場主義の名を借りた暴言を糺す
昨今、市場万能主義の風潮にのって、おかしな主張を聞くことが多くなった。もっとも市場主義の名誉のために言えば、それらは、市場主義の名を借りただけの勘違いが多い。最初に述べるのは、その典型だ。
1.規制緩和すれば住宅が安くなる
高地価の立地でも規制緩和して高い建物が建てられれば、1住戸あたりの土地費負担は下がる。その結果、住宅価格も安くなるから、是非、それを推進すべきだ....一見もっともに聞こえる主張だ。
しかし、実際は、容積率等を緩和すれば、その分地価が上がってしまうため、結局、住宅価格は下がらない。規制緩和は、土地所有者の利益を増やすが、必ずしも消費者の利益にはつながらない。論理のすり替えの典型だろう。
2.古い建物に価値があるならば費用を出して保存するものがいるはずだ
これを逆に言うと、建物保存のための費用が調達できないのは、誰も真剣に保存を望んでいないからだ、となる。「大塚女史アパート」の取り壊し、「晴海高層アパート」の取り壊し、等々。
これは、痛いところをついている。古い絵画などは高額で取り引きされ、大切に保存されているからだ。しかし、建物は動かせない点で絵画とは異なる。しかも、土地という高価な財と切り離せない。このため、いくら古い建物に価値を認めても、土地利用の転換がもたらす経済的利益を越えるほどの対価を払うことは難しいのが普通だろう。
文化は、市民の大勢がいつかは享受する公共の財産という側面をもつ。建物の保存について言えば、当面の支持者だけではなく、長い時間をかけて大勢の市民に利益をもたらすものだ。しかるに、目前の採算が合わないからと壊してしまえば、二度と再建することはできない。近代建築を「将来の文化財」とみなして大切にしなければ、将来になって伝統的建造物を指定しようとしても何も残っていないことになる。
住宅スケルトンは準公共財である
住宅は私的財だから、政府はなるべく関わるべきではないという主張はどうだろうか。この主張は、耐震偽装問題以降、住宅の安全性を置き去りにすると批判されているのは周知の通りだ。とはいえ、この主張には賛同すべき点もある。
1)住宅内部は自己責任にすべき
賛同するのは、住宅内部について政府が干渉しすぎではないかという点だ。近年、バリアフリーやシックハウス対策のために内装に関する規制が増え、しかも、それを建築確認制度に含めて行政(または民間確認検査機関)がチェックしようとしているが、どうみてもやりすぎだ。住宅内部のことは、建築主と施工者の取引における自己責任でチェックすれば十分であり、瑕疵があれば、性能保証や保険などの方法で対処すればよい。
いちいち内装まで行政が審査すると、例えばスケルトン・インフィル住宅を用いた内装の自由設計において煩雑な手間が増えるし、一方で、行政への依存心が高まる。何か問題が生じれば行政を悪者にするという風潮と表裏一体だ。日本人はいつからそんなに過保護になったのだろうか。住宅内部は自己責任とするのが筋だ。
2)住宅スケルトンは準公共財だ
これに対して、住宅外部・スケルトンは、むしろ政府の関わりを強めるべきだ。住宅スケルトンは、個人の財産であると同時に、1.街の一部を構成する、2.子孫のためにストックされる、3.雨風を防ぐ必要最低限の生活保障である、という点で家電のような純粋な私的財とは異なる。いわば準公共財だ。このために、町並みへの配慮や耐震性などの規制はあってよいし、その一方で補助も検討されてよい。日本ほど住宅スケルトンが無秩序に建てられている国はないのではないだろうか。政府の関わりが期待される領域だ。
官から民への疑問−市場主義は大きな政府を求めるというパラドックス−
ところで、近年、「官から民へ」のかけ声の中で、「市場主義の尊重」と「小さな政府の追求」という、本来は異なる課題を合体させて、広義の「市場主義」と呼ぶようになっている(正確には新自由主義と呼ぶべき)。その結果として、見過ごすことができない状況が生まれているように思う。
両者の違いを明確にするために図を書いてみよう。
ここでは市場主義を、市場を通した自由な競争を大切にする立場と規定する。そこにおける政府の第一の役割は、競争が適正に行われるように市場のルールを整えることだ。ただし、自由競争の貫徹は、競争からこぼれ落ちる者を生み出す。そこで、政府のもう一つの役割は、敗者や弱者救済のセーフティネット(安全網)を整えることだ。これが、理想的な市場主義だ。このため、市場主義と福祉は矛盾するものではない。
一方、自由競争を大切にしない立場とはなんだろうか。
悪い例としては、規制等に守られた政府系企業の非効率な仕事ぶりや、談合による競争の回避などがある。しかし、その一方で、よい面もある。それは、助け合いだ。例えば、地縁や血縁による助け合いが、人々の生活において大きな役割を担ってきた。それが企業間に拡大すると談合として批判されることになるが、その善し悪しは別にして、中小企業にとってのアングラな互助、つまり一種のセーフティネットとして機能していたことも事実だろう。
そして、もう一つの軸が、大きな政府か小さな政府かという軸である。これら二つの軸によって、図のように4つの象限が描ける。
第一象限−市場主義は理想を実現できない−
第一象限は、自由な競争を重視する一方で、セーフティネットのための福祉を充実する立場で、いわば理想的な市場主義だ。しかし、これは、現在より大きな政府を求める。なぜ大きな政府になるかを二つの例をあげて説明しよう。一つは、定期借家権創設時の議論からである。
1)定期借家権は公的負担を増やす
定期借家権の創設時に、法律学者等から弱者保護に関して批判があった。つまり、零細アパートに住んでいる老人などが追い出されることになるのではないかと。これに対して、定期借家権の推進側からは、弱者保護については公的住宅の整備等で対応するとの説明があった。現状は、借家権の過剰な保護によって、低所得者の居住福祉を零細アパート経営者に押しつけている面がある。それは不合理だから、借家契約は自由化する一方で、公的福祉を充実するのが正しいという趣旨だ。その主張には大いに共感したい。
しかし、逆に言えば、借家契約の自由化とは、民間に内在していた居住福祉を解体し、政府の福祉負担を増やす。つまり、現在より大きな政府を求めることになる。
2)公団公庫改革は大きな政府を求める
もう一つの例は、住宅系の公団公庫の解体についてである。一般に、賃貸住宅経営は土地を新規取得すると採算が合わない。というのは、土地費まで回収できるほど高い家賃がとれるならば、入居者は、その家賃で同等の持家が手に入るため、そんな高い家賃を払う入居者はいなくなるからだ。
一方で、分譲住宅事業は利益を出しやすい。では、公団公庫の改革において、分譲事業から撤退するとどうなるだろうか。そうすると、分譲事業から儲けた利益で、不採算部門を成立させるという環流ができなくなる。その結果、賃貸住宅を成立させるためには、別途、何らかの公的補助が必要になる。そのための税金は、分譲事業を行う民間企業からきちんと徴収すればよい。そうすれば、何かと非効率な政府系企業が行うよりも合理的だ...。
このストーリーは理想だが、逆にいえば、一つの政府系企業内で行っていた利益と社会還元の流れを解体し、それを政府が直接行うことを意味する。同じ構図は、企業内福祉の解体についても、郵政公社分割についてもいえる。後者については、金融・保険事業など儲かる部門を民間に移行させるならば、その分をしっかりと徴税しないと、郵便事業という将来の不採算部門を成立させるための帳尻があわない。つまり、結果として徴税と福祉という政府の役割を大きくする。「官から民へ」という主張は、大きな政府を求めるというパラドックスを内在していることに留意しなければならない。
第二象限−弱肉強食に転化した市場主義
しかし、現実はどうであったか。住宅ローンなど儲かる部門だけを民間に移すと同時に、法人税減税や、銀行への課税上の配慮を行った。つまり、税金をとらなかったのである。その結果、セーフティネットを充実するための資金は枯渇する。銀行が空前の利益を上げているのをみると、例えば住宅金融公庫が健全であれば、その利益が公庫内で環流して、住宅の質向上や住宅ベンチャー支援のための様々な活動に提供されたのにと想像して落胆するのである。
それはさておき、「官から民へ」は、徴税の充実を等閑視したことで、理想的な市場主義からは遠ざかり、自由競争かつ小さな政府という新自由主義の性格をあらわにしたのである。
その結果、競争原理が強まる中でセーフティネットを弱体化させるという、後戻りできないレールが敷かれた。この場合のセーフティネットの弱体化とは、民間や政府系企業に内在していた互助的あるいは福祉的機能を解体しつつ、それに見合うほどは政府が行う福祉を充実できないことを指している。福祉予算が少し増えた程度では、帳尻が合わないのである。
第三象限−残された道は共助の再構築
とはいえ、すでに政府は天文学的な負債を抱えている。これ以上、セーフティネットを充実することは困難だろう。一方、第四象限、つまり政府系企業や談合にみるようなアングラな助け合いに後戻りすることもできない。とすれば、弱肉強食の進展から再生できる最後の道は、第三象限しかない。
第三象限とは、小さな政府で、かつ助け合いを重視する立場である。
この立場は、かつての伝統的な共同体の暮らしを原型とする。地縁、血縁、職縁関係における助け合いによって生活の安定をはかるものだ。とりわけ企業部門における企業内福祉や互助は、日本型資本主義の特徴と言われたものだ。もちろん、これらの関係を復活させることは難しい。それは、せっかく家族・親族・企業から公的制度へと外部化してきた失業対策、老親扶養、住宅補助などを、再び内部化することを意味するからだ。
しかし、現代社会でも通用する方法はあるはずだ。例えば、二世帯住宅や疑似家族である。親子や疑似家族が、現代的なブライバシーを大切にしつつ、イザというときの助け合いを可能にする住まい方は、すぐれた互助的セーフティネットの一形態だろう。
もちろん家族による助け合いには限界がある。そこで、第三象限で最も期待されるのが、NPO活動にみられるような新しい形態による「共助」の再構築である。すでに多くの活動が始まっている。例えば、主婦や定年後の人材を活用した住宅相談等の活動や、地域通貨を利用した地縁の再生等であり、とくに介護保険の導入より、福祉系NPOの活動は大きく成長している。さらに、グループリビングなどの集まって住む形による共助の発展も期待されている。これらは、政府の足踏みを補うように、セーフティネットの一部を担いつつある。
そこにおける特徴は、無償ボランティアではなく、一定の経費を設定することにある。つまり、市場原理と助け合い精神の融合だ。これによって、弱肉強食による社会不安を緩和し、人々が安心して暮らせる社会へと再生することが期待されている。
おわりに−市場主義から共助主義へ−
私は基本的には市場主義者だと思う。しかし、ここ10年ほどの住宅分野における規制緩和推進側の共通認識であった「市場主義と福祉は両立する」という理想は、もはや風前の灯火になった。その敗北から立ち直るための一歩として、新自由主義の台頭により誤解の色がついた「市場主義」の看板をおろすことにしよう。
今、市場主義の過剰を見直し、「市場主義から共助主義へ」を求めるときである。